キレた線
その部屋は安全だが、むしろ死の世界のように静かだった。
野津地会長の指示により、通信機器の類はすべて禁止されている。
この静けさはそれだけではない。
万全な霊対策は“生きている存在”以外を一切排除している。
“何の気配もない”その部屋は、単に空気で満たされた空間でしかない。
それは霊的なものを眼前に示されるよりも強烈にその存在を感じさせた。
この世界には生者が気づかない“霊的な存在”があり、その存在には何らかの意味があるのだ。
身の回りの世話をしてくれるノヅチセキュリティーのスタッフ以外でこの部屋を訪れるのは、たまに顔を出す野津地会長と賀茂医師くらいだ。
結界が張られたこの部屋に来ないという事実が、アヤさんに古狼が憑いた事を証明しているかのようだ。
ボクを守る為だというが、そんな事が有り得るだろうか。
気持ちは焦るが、療養の身であるボクに確認の手段は無い。
かといってボクは暇を持て余していたのではなく、毎日ノヅチセキュリティーのスタッフから霊や退魔についての講義を受けていた。
ボクの身分はノヅチセキュリティーへの出向で、この講義を受ける事で勤務状態にあるという形になっているらしい。
元はといえば口裂け女のヨーコさんとは僕のプライベートから発生した事案だから労災なんて該当しないだろうし、杓子様の夜越し後に入院して、有給も少なかったので、出勤扱いになるのは非常にありがたい。
しかし、この講義、怪我人相手にしては少々厳しい。
スタッフは全部で3人。
全員女性なのだが、研修の講師然としていて隙が無く、楽しく学ぶなどとは程遠いものだ。
しかし、一番痛いのは、定期的に行われるテストの結果によって食事の内容が変わる事だ。
内容が変わるといっても、栄養は十分に摂取できる内容になっていて、ボクが嫌いな品目が増える。もしくは・・・嫌な形状で出てくる。
例えばキュウリがすりおろされて出てくるとかだ。
その、すりおろしキュウリにスプーンが添えられて出された時、さすがに苦情を言ったが、返ってきたのは「これからテストの結果が悪いと、全ての食材がミキサーされます」という冷たい言葉だった。
食事が唯一の楽しみになっている今の生活でこれはかなりキツイ。
ただ、そのお陰か、自分でも驚くほどの知識が身に着いた。
食べ物の怨みは・・・とは良く言うが食べ物の力はすごいものだ。
それにしてもこの講義のむずかしさは、内容を学ぶと同時に“感じる”“受け入れる”“信じる”という事が必要という点にある。それはボクはこれまで持っていた常識を捨てるという事が必要で、それが一番の苦労だったと言える。
そして講義が続くにつれ、ボクにも退魔が邪道でありながら必要である理由も分かってきた。
それは霊に対する考え方と人間に対する考え方の違いだ。
人間をこの世を構成する単なる一部、他の生物や石や土くれと同列と見るのか、あくまで人を上に置き、その下に人間以外の生物、さらに物質をおくのか。
『まず簡単に除霊と退魔の説明をしたい』
以下は、講義に先立って、スタッフのリーダーから告げられた内容だ。
全ての生物には魂があり、それは物質的な肉体が死ぬ事で“とある場所”に集まる。そこで魂は一つの塊となってプールされ、個別の魂というものは存在しない。新たな命が生まれる時に分離して宿るのだ。
それが、肉体が滅びても魂がこの世に残る場合がある。
それは自らの意思であったり、他の魂や生者の影響であったり、または全くの偶然であったりする。
これらが事実かどうかを語るのは全くの無意味で愚かな事だが、どうすれば良いのかと問われれば、「ただ“信じる”のみ」と断言しよう。
だからこそ、それは宗教と密接にかかわる事になるのだ。
除霊は浄霊という行為を含むという解釈だ。
除霊は人間の身体から霊を抜く事で、その霊が成仏できるようにする行為を浄霊という。つまり、除霊するだけではなく浄霊が必要なのだが、対象とする霊のタイプが単純であったりランクが低い場合、除霊を行った時点で完了となる場合が多い。
これは憑りつき自体に大した意味が無かったり、元々この世界に留まるだけの力がない霊である場合が多いからだ。
この程度なら多くの場合は除霊をしなくても自然に霊が抜け“体調が悪かった”で済んでしまう場合も多い。人が感じる体調不良のある程度は霊的なものが原因なのだ。
その昔、シャーマンや祈祷師が病に対処していたのは、ある意味正しいと言えるだろう。
近代医学が発達する以前、原因が不明であったり、治せない病があるというのはごくごく当然の事であった。それは人間にとって天候と変わらない事象であって、それら自らの運命について受け入れざるを得ない素地となっていたのだ。
ところが近代医学は人間に治療による成果と同時に誤解をももたらした。それは生活基盤の安定と相まって、自らの生存、つまり死なない事に何の疑問も持たなくなった。それは生存が当たり前であるかのように思わせ、生きるための努力、ひいてはその力すら弱めた。
それを人間の幸福と呼んでも、人類の幸運と呼ぶべきかは甚だ疑問だ。
話が脱線した。もとへ戻そう。
一方で退魔の目的とは霊を消し去る事にある。後には何も残らない。
退魔を行う野津地会長を多くの者が邪道であると指弾し、おこがましいとさえ言うのは人間をこの世界の一部と考えているからだ。その人間のために他の存在を消して良いとは考えていない。
だから除霊を行った結果、失敗してもそれはそれで受け入れるべしという姿勢なのだ。
人事を尽くして天命を待つという姿勢は何事にも通じる。
しかし、ノヅチセキュリティーは闘う。
邪道であろうと、おこがましかろうと、汚名を被ろうと、人を救うのだ。
野津地礼子。
彼女は異端の霊能者なのだ。
これは講義に先立って、スタッフのリーダーから告げられた内容だ。
野津地セキュリティーは是か非か。
ボクが言うのも何だけど、最終的な是非は永遠に結論が出ないだろう。
◇*◇*◇*◇*◇
そうやって3週間が過ぎた。
いよいよ来週からリハビリが開始される。
だいぶ辛いらしいが、今までの事を思えば気にする程もないだろう。
やはり経験というものは良し悪しに係わらずボクの力になっているのだ。
そんな中、久しぶりに野津地会長が現れた。
部屋に入ってくるなり、ソファーにどかっと腰を下ろす。
「颯太、リハビリに入る前に話がある」
なるほど、リハビリが開始されるという事は、ボクの社会復帰というか、いつまでも結界の中にいるわけにはいかないという事なのだろう。
そこで問題になるのが、杓子様とヨーコさんだ。
「何とかしなくちゃならないんだが、お前もやっかいなのに惚れられたもんだね」
ヨーコさんが憑りつくのはボクの承認が必要だし、万が一憑りつかれてもすぐに死ぬわけではないけど、杓子様は憑りつかれたら即アウトだ。
しかし、杓子様はあれ以来消えてしまったという。ミロクというヒトカタも同様だ。
ノヅチセキュリティーが倉木さんに連絡を取って調べたところ、一つの地蔵が動かした形跡があったらしい。
つまり、一旦地蔵を動かして杓子様を村の外に出した後、また地蔵を元の位置に戻したという事になる。
「一体誰が?」
「ミロクだろうね。ただ、霊体であるミロクは結界を破る事はできない。恐らく誰かに憑りついて、別の人間に指示したんだろう」
「もう嫌だ。何回繰り返せばいいんだ・・・」
「その件なんだが、杓子様がお前を狙うのは憑り殺すためではないかもしれない」
「え?」
「杓子様に魅入られた男の中には何年も後になってから姿を見せた者がいるらしい」
「そんな話聞いた事ないですよ。魅入られた人は死ぬんです、崩れるように腐って・・・」
「落ち着きな。だから中にはって言ってるだろ。杓子様はヨーコと違って憑りつくのに相手の承諾を必要としない。ま、むしろヨーコのような憑りつき方が珍しいんだけどね。ところが、杓子様はお前を憑り殺す機会はいくらでもあったのにしなかった」
「これって不思議じゃないかい?」




