ループ
夏の昼下がり、ボクは公園のベンチに座って、ぼぅっとしていた。
新しく引っ越してきた東京の某所。
人が多くて、夜も明るくて、昼間は意外と静かなその場所は、これが東京なのだと言っていた。
「暑いな、でも・・・」
でも気持ちがいい。
空調の利いた建物にずっといると、窓ごしの景色に温度を感じる事はない。
それはTVと全く同じだ。
そこに居なければ感じる事はできない。
同じ場所に立たなけれは共有できない。
だからボクはアヤさんと一緒に居たいのだろうか。
岩城課長に同行したいと思うのもそうなのだろうか。
今日は金曜日とはいえ学生は夏休みだろうし、政府が打ち出した節電政策の影響で週休3日の工場も多くなっている。
公園の人出は意外に多かった。
いくつかある木陰のベンチには親子連れやカップルなどが座っていたし、子供たちが遊んでいるのも見えた。
ふと視界に赤いものが入った。
何気なく目で追うと、それは赤いコートを着た女の人だった。
公園の多目的広場の向こうを歩いている髪の長い女。
身長が結構高い。それだけでびくっとしてしまう。
大丈夫だ、杓子様はボクが望まなければ姿を見せないと言った。
ボクは杓子様の言葉を信じている自分に驚きながら、その女性の異常さに気付いた。
真夏だというのに赤いハーフコートを羽織り、大きなマスクをしているのだ。表情は全くわからない。
やがてその女性は、ベンチのカップルや砂場の子供達、喫煙所のサラリーマン、順に近づいては顔を覗き込むようにしている。
不思議なことに誰も気づいていないようだった。
何しろ目の前20㎝くらいまで顔を寄せて覗き込んでいるのだ。
気づいて無視しているとは思えない。
ここでボクは負けた。
立ち去れば良かったんだ。
自然に立ち上がって、公園を出れば問題なかった。
しかし動けなかった。
ボクがその存在に気付いて立ち去ろうとするのを見逃すだろうか。
むしろ動く事で気づかれるんじゃないか。
そう考えると動けなかった。
その先にもっと恐ろしい事が待っているのは容易に想像できたが、ボクは動けなかった。
見逃さないってなにが?
決まってる。
人外の存在だ。
その存在にボクだけが気づいた。
なんて事だ、またボクだけが。
見てはいけない。
気付いている事を悟られてはならない。
と、その瞬間。
赤いハーフコートの女は動きを止めてこちらを見た。
まずい
気付かれた?
ハーフコートの女はもう誰も見ていない。
子供たちが走り回る中をすり抜けるようにこちらに向かってくる。
1人の子どもがぶつかって転んだ。
子供は不思議そうにしていたが、照れ笑いを浮かべてまた走り出した。
犬の散歩中に立ち話をする年配者の傍を通り過ぎる。
犬が激しく吠えて、飼い主にリードを引かれている。
誰も見えてないんだ・・・
でもボクには見える。
そして見える事に気付かれた。
逃げろ
間に合うのか?
間に合う。
まだ距離があるはずだ。
ボクは立ち上がろうとした。
その瞬間、赤いハーフコートの女はボクの目の前に立っていた。
俯いている僕には腰から下しか見えない。
腰に置かれた手には黒いレザーグローブ、脚には黒のストッキングにワインレッドのパンプス。
そのパンプスを履いた足が小さく開いたかと思うと、大きなマスクをした女の人の顔が目の前にあった。
目が合った。
「やっぱり見えてるじゃない」
「見えてるんでしょ?」
「・・・」
「口裂け女って知ってる?」
「・・・」
「何かいいなさいよ」
「・・・」
「ま、いいわ。勝手にやらせてもらうから」
「この辺りにあなたみたいな人間がいるとはね。しかも何も憑いてないなんて。まぁ、私にとってはラッキーだけど」
女が右手のグローブを引き抜くように外すと、指は白くて美しかった。
ネイルはパンプスと同じくワインレッド。
その手がスッと上がってボクの頬、いやその少し下に当てられた。
そこは丁度ボクの静脈があった。
白く美しい中指がボクの静脈を転がすように動いた。
それは驚くほど心地よくて、恐怖と快感は相乗的に大きくなっていった。
「あなた、気に入ったわ」
女はそこまで言ってマスクを外した。
左耳だけにかかったマスクが揺れている。
自ら口裂けと名乗る女の口は裂けてはいなかった。
切れ長の目に細い鼻梁、その下には形の良い唇がルージュを引かれて光っていた。
一言でいえば美しい女性だ。
「あなたは私のものになるんだもの。少しぐらい説明してあげないとね」
私は言ったとおり口裂け女と呼ばれる存在よ。
人間で言うところの名前は「ヨーコ」。
古臭い名前でしょ?ま、どうでもいいけど。
私は三代目なの。
初代は人間にすごく近くてね。
食べ物も物理的に摂取してたんだけど・・・ま、物理的な食べ物って人間なのよね。
怖いでしょ?
そうやって生きているうちに怨みとか悲しみとかが固まってね、人間から離れた存在だけが残ったの。
人間が言う霊とか妖怪とか。
そんな存在になってしまったのよね。
ま、そんなこんなで私は憑りついた人間の精気を養分にして存在してるって訳。
大体3年くらいかしらね。憑りついた人間がもつのは。
原因不明の病気ってあるでしょ?
あれってほとんどが憑りつかれた人間の末路なのよね。
でも、安心してね。痛かったり苦しかったりはあまりないの。
逆に私が精気を吸っている時は結構ハイになれるらしいのよね。
「ほら、こうすると気持ちいいでしょ?」
また女の指がボクの静脈をころがした。
快感が増す。そして、恐怖も大きくなっていく。
「ただね、憑りつくにしても相性っていうものがあってね、今の宿主がもうすぐガス欠になりそうだから、物色してたらあなたがいたの」
あなた・・・
若いし
健康だし
カワイイし
憑りつきやすいし
そして、何より相性がいいみたい
「う、う・・・あ、あ・・・」
ボクは逃げるどころかしゃべることすらできなくなっていた。
女は顔をぐっと寄せた。
とても良い香りがした。
快感が恐怖を超えた。
白いきめ細やかな肌と形の良い唇、切れ長の目と長い睫。
美しい。
この人に溺れたい。
この人の一部になりたい。
この人のものになりたい。
「私のものにしてあげるわ。明日12時、またここに来なさい」
「・・・は・・・い」
赤いハーフコートが舞って、女は去って行った。
その後ろ姿が蜃気楼のように揺らぎ、そして消えた。
ボクはしばらくぼんやりとしていた。
女の瞳と唇を記憶でなぞる。それはボクにとって自慰にもにた感覚だった。
公園では子供達がサッカーを始めた。
それをボクは見ているのだけど、現実的ではなかった。
照りつける太陽も通りの雑踏も、表現が難しいのだけど、それは嘘の世界だった。
ボクにとって本当の世界とはあの赤いハーフコートを着た女性との空間だ。
どれくらい経っただろう。
我に返ると夕方になっていて、喉がひどく乾いている事に気付いた。
公園の水道で水を飲むと、またベンチに戻って座った。
あの女性の事を思い出すと何だか幸せな気分になって離れたくなかったのだ。
ボクは少し迷ってから、倉木さんに連絡した。
どうして岩城課長に連絡しなかったのだろう。この時はなぜか思いつきもしなかった。
倉木さんは、自分には何もできないと言ったが、知人に相談してくれるという。
物事は何も解決していない。
しかし、ボクは安堵感に浸っていた。
もう大丈夫。倉木さんに電話したんだもの。
倉木さんが何とかしてくれる。
その後もぼくはベンチでぼぅっとしていた。
30分くらい経っただろうか。
着信音が鳴った。
「もしもし、倉木です!対応をしてもらえる事になりました。大伴という方から直接連絡が入りますから相談してください」
「大伴って誰ですか?」
「直接会った事はありませんが、東京では実績がある組織の方です」
「組織?」
「詳しくは私も分かりません。今回のように個人へ対応してもらえる事はほとんどないのですが、ラッキーでした」
5分後、着信音が鳴った
出ると落ち着いた女性の声。
「もしもし、ノヅチセキュリティーの大伴です」
ボクは驚きとともに現実に引き戻された。
「えっ!?ノヅチセキュリティー?」
「はい、この度はご用命いただきありがとうございます。早速ですがお名前の漢字、性別、生年月日、住所と本籍を教えてください」
「あの、ボク・・・」
「はい、ソガシステムサプライの荒木様ですね。今回は野津地が対応させて頂く予定です」
「あの会長が?」
女性はクスクスと笑った。
「そうです、あの会長です」
「す、すみません」
「いいえ、こちらこそ失礼しました。それではお名前を」
電話の女性は落ち着いていて礼儀正しかった。
「では、体験した事をそのままご説明願います。荒木様のご意見や感想などは不要です。見た事聞いた事、実際に起きた事だけお話しください」
口裂け女の話は理解してもらえるのか不安で躊躇したが、話し始めると明日の約束まで一気に説明してしまった。
その後は何点かの質問に答えて終了だった。
「では、対応させていただきます。お時間いただきありがとうございました」
「え?ちょ、ちょっと待ってください、ボクはどうすれば?」
「特にお手を煩わせる事はございません。普段通りにしていただいて結構です」
「普段通りって、この公園にも来なくていいんですか?」
「はい。ただ、荒木様はその公園にお見えになると思います。これはご自分のご意思とは別です」
大伴さんが言うには、ボクは完全に術中に嵌まっていて、何をしようとこの公園に来てしまうのだそうだ。
また、口裂け女にとって不利な行動は行わないように思考が働くらしく、本当なら岩城課長に相談するべきところを連絡しなかったのもそのせいだ。
それでも結果としてノズチセキュリティーにつながった事は本当に幸運だったのだ。
そして、すぐに憑りつかなかったのは今の宿主を清算するためだという。
「良かったですね。1日の猶予があなたの運命を分けました」
「あの、除霊とかするんですか?」
「そうですね、まだ憑かれていないので、正しい表現ではありませんが、受けている術を解く必要がありますし、対象霊は荒木様を随分と気に入ったようですから、退魔を行う事になるでしょう」
「は、はい、よろしくお願いします」
「今回の対応には私も参加させていただく予定です。お任せください」
電話を終えて茫然とした。
ボクはどうすればいいんだ。
一昨日、あんな体験をしたばかりじゃないか。
それで今日か。
もう、ボクはもう限界だ。
絶対行くもんか。
大伴さんはああ言ったけど、妖怪が待っている場所に誰が行くだろうか。
明日は野津地さんが解決してくれる。
ボクは何もしなくていい。
そうだ。ボクはただ委ねればいいんだ。
しかしこの時ボクが委ねたのは野津地さんを信じてではなく、恐怖から逃げるためだった。




