野津地礼子
ノヅチセキュリティー野津地礼子会長との商談も今回で5回目だ。
しかも初出社の日に訪問してから、まだ2週間しか経っていない。
つまり3日に1度は訪問している計算だ。
そして毎回のように商談というより雑談で時間が過ぎていった。
その雑談の内容は、歴史、宗教に関する話と、霊や妖怪、都市伝説にまつわるものだった。
課長がボク達に渡したテキストの真意はここにあったのか。
取引相手の趣味に合わせた会話は確かに有効だろう。
ただ、野津地会長の話は時として、現実なのか空想なのか、真剣なのか冗談なのか全く分からなくなる。
そして訪問を重ねるごとにその傾向が強くなっていき、この人は“狂人か?”そう思ってしまいそうな時すらあった。
今日は理解できない単語も入り始め、いよいよもって、これが商談なのか雑談なのか、そもそも真剣な話なのかも分からなくてボクを不安にさせた。
それに加えて野津地会長の口の悪さはますます酷くなっていく。
「岩城、この荒木って子はチェリーだけど、女の子の方が憑いてるじゃないか」
「ちぇりー・・・」アヤさんは思わず口に手を添えた。
ボクは思わず一歩前に出ていた。
「なっ、何を仰って・・・」
「チェリーってのは憑かれてないって事だよ。もしかしてソッチの方もかい?それはそれで楽しみだね」
「あ、あの、これは一体!」
アヤさんも思わず声を上げた。
「うるさいね、ちょっと静かにしな、問題はアンタのところなんだから」
「野津地さん本当ですか?俺が確認したはずですが」
「憑いてるのは名もないようなヤツだけどね、“ヒトカタ”がしっかり憑いてるよ」
「俺が気付かないなんて・・・」
「そうさ、岩城が気づかないって事はコイツは存在を消してたね。そうやって上手く立ち回るだけの頭はあるって事になる」
「どうします?」
「そりゃ、私が準備した“古狼”を憑けたいからね。除いちまうしかないだろうねぇ」
何を言っているのか分からないボクとアヤさんはあっけにとられていた。
そのとき部屋の隅で何かが動く気配。
のそり
濃い灰色の獣毛に覆われたオオカミのような生き物。
いや、生き物ではないだろう。その体は半分透けていた。
吠えもしなければ唸りさえしない。
それがかえって圧倒的な力を誇示するかのようだった。
「で、でかい」
思わず口から洩れるのも無理はない。
オオカミの体長は約120㎝程度だが目の前の獣は180㎝以上あった。
アヤさんは声もなかった。
「さて、お嬢ちゃん。いや、お嬢ちゃんに憑りついた“ヒトカタ”、さっさと消えてもらえるかしらね。居座ってもいいけど、古狼は手加減しないわよ」
鈍い音がした。
それは耳ではなく身体の皮膚から感じるような空気の振動。
それと同時にアヤさんの目から生気が消え、視線は宙を見つめている。
岩城課長がボクを庇うようにして下がった。
「ばかな、古狼を見ても闘うっていうのか」
「面白いじゃない?よほど自信があるのか、それとも救えないほど愚かなのか。大都会ってのは、ぶっ飛んだ霊が多いからね」
野津地の右手が不規則に動いた思った瞬間、どこから出したのか数枚の札を握っていた。
「さ、これで古狼は自由だよ。あの娘が気に入らなければ隣の子でもいいし、それも気に入らなければ、また探してあげから。とりあえずどちらかに憑いておかないと腹ペコだろ?」
憑りつく霊の作用は様々だ。
憑りついた宿主を養分にしたり、宿主に必要な養分を調達させる、そういった作用は一般的に霊障と言われる障害を引き起こす。ちなみにこの養分とは霊の存在を支えるエネルギーを指し、物理的な物の場合もあるし、報復や復讐、または単に不幸な出来事などをエネルギーとする場合もある。
それらとは逆に、宿主に利するものとして、宿主を守りながら宿主を通じて現世界からエネルギーを得るもの、またはその過程において宿主にもパワーを提供するもの、これらは守護の一種である。
宿主にどんな影響を及ぼすかは、霊自体の性質にもよるが、強力は霊ほど自己の意思で決定する傾向にある。古狼ほどの強力な霊なら気に入らなければ飢えても憑かないだろうし、気に入ったなら力に訴えてでも憑くだろう。
しかし、その為にはアヤに憑いているという“ヒトカタ”が邪魔になる。
野津地が言う“ヒトカタ”とは人間の霊を指す。
『グルルルゥ・・・』
古狼が身構えて低く唸った。
「うぉっ」
荒木を庇った岩城は古狼の気をまともに受けたのか小さく呻いた。
その直後、篠原アヤの身体が床に崩れた。
「よし、抜けたか」
野津地の声もいささかほっとしているようだったが、その声が驚きに変わった。
アヤが震えながら立ち上がったのだ。
よろめくように廊下に出ると、壁に手をつきながら玄関に向かう。
古狼も厳しい顔をしたまま後に続いた。
「これは驚いた。憑いているのは只者じゃないね、ただ古狼もあの小娘をだいぶ気に入ったようだ。ちょっと面倒な事になりそうだよ、これは」
言葉とは裏腹に何かを期待するような声だった。
「篠原さんを追わないと!」
「止めとけ、お前が死ぬだけだ」
「でも!」
「坊や、岩城の言うとおりだよ。あの古狼はね、べらぼうな力を持ってる。ただそれを発揮する理由が無いだけなんだ。一言でいえば倦んでいるのさ。力を持て余してるんだ。昔は神の眷属として君臨していたんだからね。それが今の世の中じゃ誰も頼らなくなっちまって腐ってるのさ。もう山々には取り仕切るほどの霊もいなければ人の信仰もありゃしない。だからこんな都会に出て来て、憂さを晴らそうって気にもなったんだろうね。ま、私はそれを利用してるんだけど」
「どうしたらいいんですか?」
「どうしようもない」
「どうしようもないって、篠原さんはどうなるんですか!」
「古狼はプライドが高いからね。しかもあの娘を気に入ってるから、傷つけるような事はしやしないよ。ただ、相手をする“ヒトカタ”が無茶しなけりゃいいんだけど」
「心配するな荒木、篠原に憑いた霊がどれほどのものか分からんが、古狼は戦闘力に限っていえば敵なしだ」
どれくらい経っただろうか。
ボクにはとても長い時間に感じられたのだが、部屋の時計で見る限り10分も経っていない。
もっとも、時計が“まともに動く”のであればだ。
この部屋の空気は重い。まるで水中にいるようだ。
それに野津地さんの後ろ、古狼が出てきた場所から強い気のようなものを感じる。
まだ何かいるっていうのか?
理解できない出来事と緊張の連続。
脂汗が流れ朦朧とする意識のなかでボクは耐え続けた。
それは夜越しの感覚に似ている。
「荒木、お前なかなかやるな」
岩城課長を見ると額には汗が浮かんでいる。
「礼子さん、俺はちょっとキツくなって来たんで一旦外しますが、荒木に変な事はしないでくださいね」
「残念だねぇ、必死に耐える姿を見てるとグッと来ちゃうのよねぇ」
「本当に頼みますよ」
「まぁ、いいけど?」
岩城課長が無理に笑顔を作りながらドアのノブを回した、その時。
「うわっ」
古狼が入ってきた。
眉間に皺が寄り、顔をしかめているようにも見える。
「どうしたんだ、娘はどうなった」
野津地会長の問いかけに何も応えない。
古狼はスタスタと野津地さんの傍にやって来たかと思うと、ペタンと床に丸くなって寝てしまった。
「ほとんど闘った様子もないじゃないか」
野津地さんが札を貼ると、やがて古狼の身体は透き通るように消えていった。
部屋の空気が急に軽くなる。
「野津地さん、これは一体・・・」
「分からないね。だけど、古狼がああなったら何も答えちゃくれないよ」
「お前たちは急いであの娘を探しな」
野津地さんはボクの不安に気づいたのか、少し表情を和らげていった。
「あの娘は無事さ、それだけは間違いない。あの娘が危険な状況なら古狼が帰ってくるわけがないからね」
ボクが部屋を飛び出そうとドアを開けるとアヤさんが立っていた。しかし、その視線は部屋を出て行った時と同じように虚ろなままだ。
ボクに寄りかかるように倒れ込むと気を失ってしまった。
「アヤさん!」
ボクの呼びかけに小さく目を開け、おずおずと伺うように周囲を見渡した。
「私・・・私、気分が悪くて、我慢していたら、気が遠くなって・・・」
どうやらアヤさんは古狼も憶えていないようだ。
これは幸運なのだろうか、それとも事実を知らねばならないという不幸なのだろうか。
「岩城、商談は不成立だね」
野津地会長の声にアヤさんはビクっとしたかと思うと、急に泣き出した。
「大事な商談なのに・・・私のせいで。すみません」
「あんた、篠原とか言ったね。今回の不成立は次の大きな商談のためだ。また来るといい」
アヤさんは涙を拭きもせず戸惑っている。
「篠原、ノヅチセキュリティーとの取引は規模を大きくして継続だ」
「本当ですか」
岩城課長と野津地会長が頷くのを見て、アヤさんはやっと涙を拭いた。
「ちょっとな、今回は俺が無理をさせすぎた」
「そうだね、だけど若い連中には良い経験だろう。それと、荒木・・・颯太だっけ」
「は、はい」
「その娘のフォローを頼むよ」
ボクは訳も分からず頷いた。
「よしこんな時間だ。今日はお開きだね」
時計は夜8時半を指していた。
『えッ!!』
ここに着いてから5時間も経過している。
やっぱりあの時計の進みは現実とは違ったのか・・・
改めて背中が寒くなった。




