杓子様(しゃくじさま)
山神様を知っているだろうか。
それは日本各地に伝わる山の神の事で、地域によって様々な呼び方をするが、総称としては山の神、山神様、神道では産土神とも呼ばれる。
ボクの住んでいる地域にも似た言い伝えがあり、杓子様と呼ばれている。日本各地で伝わっている山神様と同じく女神であるらしいのだが、杓子様は見上げるような大女で、若い男に憑りつくのだという。これを“魅入り”と呼び、一度杓子様に魅入られると数日で憑り殺されてしまうという話だ。
この杓子様は特定の地区に留まっているのだが、これは杓子様の存在を知る者が他の地域に移動しないように結界を張っているかららしいのだ。
そんな物騒な存在を留めておく理由は、近隣村落との地域協定とか、農作物が良く実るようになるとか、様々な理由があるらしい。
ボクは杓子様の話を聞いた事はあったが、昔話の一つとして、ほとんど記憶にも残っていなかった。
ネットで出回っている八尺様も恐らくは同じような存在だろう。
八尺様は名前の通り身長は2mを優に超え、姿は若い女性で頭には帽子か何かを乗せており、「ぽぽぽぽ・・・」や「ぼぼぼぼ・・・」という音(声?)を発するらしいが、杓子様も似たような音を発するという。
それは魅入られた者にしか聞こえず、姿も同様に魅入られた者にだけ見えるのだという。
まぁ、どちらにせよ物の怪や妖怪といった怪談話だ。そう思っていた。
ボクが住んでいるのはとても都会とは言えない地方都市なのだけど、父親の実家はその地域でも更に田舎にある大きな農家で、子供の頃はよく遊びに行ったものだ。
ボクの颯太という名前も祖父ちゃんがつけたらしいし、早い話がじいちゃん子なのだ。
専門学校を出たボクは去年から働き始めたのだが、今でも癒しというか息抜きを求めて、ふらりと遊びに行ったりする。
そして、社会人2年目を迎えた今年の春、祖父ちゃんちでのんびりと過ごしていたボクは、杓子様に魅入られてしまったのだ。
◇*◇*◇*◇*◇
祖父ちゃんは絞り出すように言った。
「まだ続くんか・・・」
ボクが杓子様に魅入られたと知った祖母ちゃんは見ていて気の毒になるほど怯えていた。
「颯ちゃん・・・」
ボクは幼い頃から体が小さく、祖母ちゃんは今でも気にかけている。
身長は160㎝しかないし、童顔痩せ型のせいでだいぶ年下に見られてしまうのが常だ。
祖父ちゃんが身体つきの割に大きな手をぎゅっと握ってボクを見た。
「心配しなくてええ、詳しくは後で話すかんな」
「うん」
「おい颯太、左手すりむいとるぞ」
「あれ、ほんとだ。いつの間に・・・」
「ばあさん、包帯巻いたれ」
そういって祖父ちゃんは玄関にある電話でどこかに連絡している。
「すまねぇ」と言っているのが小さく聞こえる。
ばあちゃんが巻く包帯は心なしかきつく感じられた。
*-*-*-*-*-*
しばらくして男たちが集まってきた。
祖父ちゃんと同じくらい、70歳前後のお爺さんが3人。他に少し若い、と言っても50台半ばくらいが2人、そして30歳くらいの人が1人、ボクと祖父ちゃんを併せて全部で8人が、居間の大きな座卓を囲むように座った。
集まってくれた人たちは、それぞれ名乗ってくれたが名前はほとんど忘れてしまった。
祖母ちゃんがお茶を出している最中だったが、祖父ちゃんは急ぐように話し始めた。
「今日は突然ですまねぇが、力を貸してくれ」
祖父ちゃんが頭を下げると、集まった人達も一様に頭を下げて意思を示した。
杓子様に関する事は紙に記してはならないとされ、口承で伝えられてきたのだという。
言い伝えでは十数年ごとに若い男が魅入られるようだが、前回被害が出たのは60年も前だという。
もしかすると誰も気付かないうちに魅入られ、行方不明とかになっている人がいるのかもしれないが、祖父ちゃんはここ60年、杓子様は姿を見せていないと断言する。
そして言い伝えには杓子様を守る者達(人間かどうかも不明)が存在するらしいのだが、祖父ちゃんはもちろん、もっと詳しいはずの祖父ちゃんの祖父ちゃんも見た事がないらしい。
そういった感じで言い伝えとは違うところも多いし、そもそも杓子様を見た者がいないので、何かの事故や失踪が杓子様の言い伝えと結びついただけではないかと考える人も多い。
つまり、杓子様の被害が表面化しなかったせいで、杓子様は怪談や昔話の類になってしまったのだ。それどころか、今では杓子様の言い伝え自体を知らない人がほとんどだという。
それでも祖父ちゃんが杓子様を本気で信じているのは、前回魅入られたのが祖父ちゃんの兄だったからだ。
その時は祖父ちゃんの祖父ちゃんが、杓子様の動きを封じている結界の外へ連れ出そうとして失敗したらしい。
杓子様に魅入られた者は、結界を張った密室(蔵や倉庫)で夜を過ごし、明け方に杓子様が一旦山へ帰る隙をついて結界の外(つまり村の外)へ逃げるのだが、これを“夜越し”という。
“夜越し”にはもう一つの理由があって、杓子様が魅入った人間の周りを一晩うろついて過ごす事で、その人間を強く意識させ、魅入られた者が逃げ切っても他の者が新たに魅入られるのを防ぐのだという。
しかし、効果のほどは不明だ。
事実、祖父ちゃんの兄は翌日の朝、逃げようとして憑り殺されてしまっている。
憑り殺されるのは一瞬の出来事らしく、祖父ちゃんのお兄さんは村の境を目指して走っている最中、急に立ち止まって倒れた思ったら死んでいたらしい。
その身体は驚くほど軽くなっていて、すぐに腐り始めたという。
だから葬式の時にも全身を布で巻かれた遺体を埋葬したという話だ。
ボクはその話を聞いて全身が総毛立った。
腐った姿を晒して死ぬなんて嫌だ。
「智さん(祖父ちゃんの名前は智次)、間違いないのかね?」
「あぁ、ウチの颯太は杓子様の話なんぞ何も知らねぇはずだ。だが、見たもんは間違いなく杓子様だ」
50歳くらいの男の人がボクに尋ねた。
「颯太君、私は杓子様を見た事もなければ見る事もできん。そして言いづらいが、今でも本当なのかと思う気持ちがあるんだ」
「はい、ご迷惑をかけて済みません」
「あ、いや、杓子様については以前から聞いているし、やる事はしっかりとやらせてもらう。だが、少し教えてくれないか」
「教えるも何も、ボクは何も・・・」
「見た状況でいいんだ」
「はい、わかりました」
昼の11時頃だったと思います、ボクは縁側で少しうたた寝をしていたんですが、顔に影がかかるのを感じました。日が陰ったのかと思って目を開けましたが、雲もかかっていませんでした。思い過ごしかと思って目を閉じるとまた影がかかる感覚があるんですが目を開けると何もないんです。
おかしいなと思いながら、ぼんやり庭を見ると生垣の上に白いものがありました。ぱっと頭に浮かんだのは麦わら帽子というかキャペリンというか、とにかく白い帽子のような感じでした。
それは右に左に移動して見えなくなりました。
ご存知かと思いますが、生垣は2m以上あります。
「測った。2.2mだった」
口を挟んだのは佐伯さんという30歳くらいの人だ。
少しぶっきらぼうな口調だったが、杓子様の話を疑ってはいないようだし、ボクの話も真剣に聞いてくれていた。
「荒木の爺様から聞いてね、測ったんだ。済まない、続けてくれ」
ボクは気になったので生垣が途切れたところから向こう側に出て、左右を見渡しましたが誰もいませんでした。
左側は生垣の角になっているのでそこまで行きましたが何もありませんでした。
でも、戻ろうと振り向くと生垣の先に大きな女の人が立っていたんです。
頭には確かに帽子のようなものを乗せ、服装は白いワンピースでした。
女の人はうつむいていたので顔は見えませんでしたが、身長は生垣と同じくらいあったと思います。
その時ボクは慌てていたんでしょう。ただ背の高い女の人が居るとしか思いませんでした。
探したのが何か悪い事をしたような気がして、急いで戻りましたが、その時、囁くように「てんぽ、てんぽうかか、えにおしとと・・・」と聞こえました。
「てんぽうかか?えにおしとと?」
「はい、そう聞こえました」
「叔父貴、“てんぽ”とか“てんぽぽ・・・”じゃなかったのか?」
佐伯さんに尋ねられた60歳くらいの人は、腕を組んで、「分からん」と天井を見た。
「まぁ、それは気にする必要も無いだろう、その後は?」
「また少し縁側に居たんですが、落ち着かないので家に入りました。その時・・・」
「その時どうした」
「いえ、気のせいかもしれませんが・・・隣の部屋から視線を感じました」
「隣の部屋って・・・その部屋か」
全員が隣の部屋を見た。
「はい、そのとき襖は閉まっていました。でも気味が悪いので開けて確認はしませんでした」
ボクの話が途切れると、皆の視線は祖父ちゃんに集まった。
「わしはその話を昼飯の時に聞いた。今日集まってもらったんは、これからも杓子様に関わってく方々じゃけ、今回がどんな始末になろうが、よくよく見届けてほしいんじゃ」
祖父ちゃんは毅然とした態度で言ったが、やや俯くようにして付け足した。
「じゃけんど、颯太には助かってもらいてぇんだ、この通り、よろしく頼んます」
集まった人たちは緊張した面持ちながら「おう」とか「任せてくれ」という声で応えてくれた。
少しの沈黙があって、祖父ちゃんが口を開いた。
「とにかく“夜越し”準備を始めにゃ。倉木さんは?」
「迎えに行ってる」
倉木さんとはこの地域の神社の若い宮司らしい。
若いと言っても40歳らしいが、皆は一様に心配そうだった。
「前んときゃ倉木の爺様が居たからよかったが、小倅で大丈夫かね」
「爺様は“準備さえしっかりやれば大丈夫”だと言うとった。むしろ当人の辛抱が大事だと」
“夜越し”とは杓子様に魅入られた者が1人で密室に一晩閉じこもって難を逃れる事だ。
みんなが一斉にボクを見た。
ボクは泣きそうだった。
今回“夜越し”で使われるのは、村の奥まった山の麓にある神社、その境内にある四畳半ほどの物置だというのだ。
あんなところで一晩過ごさなければならないなんて、それだけでも気がおかしくなりそうだ。
重苦しい雰囲気を破る様に玄関から声がした。
「倉木さんを連れてきたぞ!」
「失礼します」
入ってきた人はなんと神主の正装と言っていいのか、神社でお祓いをしてくれる神主さんと同じような服装をしていた。
「おおっ、白八藤紋に黒袍か」
祖父ちゃん達が言うには階位が高い神主の正装らしい。
「虚仮威しになるかもしれませんので、勝手ながら拝借してきました」
「見違えるなぁ」
「祖父のものです」
「そうか、こちらも力が湧くようだ」
「杓子様については祖父から聞いています。任せてください」