第二章:鋼鉄のゆりかご
巨大な宇宙戦艦「リベレイター」の内部は、常に微かな機械の振動に包まれている。
それはまるで、鋼鉄の巨獣が呼吸を繰り返しているかのようだった。
エルシエラが目覚めたのは、人工的なアラート音ではなく、ダクトから漏れる油とスパイスの混じった、生活感のある匂いによってだった。
昨夜、カイザルによって連れてこられた客室。
彼女はゆっくりと身を起こし、昨日まで身に纏っていたドレスの代わりに、用意されていた簡素なつなぎの作業服に袖を通した。
「……今日からは、私はただの『エル』なのね」
鏡に映る自分を見る。
美しく整えられた銀髪を、思い切って高い位置でポニーテールに結い上げた。
ミストバングが揺れるその顔は、まだ少し不安げではあるが、瞳には確かな決意が宿っている。
彼女は深呼吸を一つして、重いハッチを開き、活気に満ちた通路へと踏み出した。
食堂へ向かうと、そこには屈強な男たちがひしめき合い、賑やかに朝食を摂っていた。
一国の王宮では決して見ることのできない、荒々しくも温かな光景。
エルシエラが姿を現すと、一瞬だけ場が静まり返った。
誰もが、その隠しきれない高貴な美貌に圧倒されたのだ。
だが、彼女は気後れすることなく、厨房を仕切っている大柄な中年女性――料理長のマーサの元へ歩み寄った。
「あの、私……何かお手伝いできることはありませんか?」
「おやおや、お姫様がかい? ここは戦う男たちの腹を満たす戦場だよ。あんたのような綺麗な指が汚れてしまうよ」
マーサは豪快に笑いながら、巨大な鍋をかき混ぜる。
エルシエラは一瞬怯んだが、すぐに真っ直ぐな瞳で彼女を見つめ返した。
「汚れても構いません。私は、この船の一員になりたいのです。……教えてください。お皿洗いでも、掃除でも、何でもします」
その言葉に含まれた真剣さに、マーサは少しだけ驚いたように目を丸くした。
周囲の海賊たちも、興味津々で二人のやり取りを見守っている。
やがて、マーサはニヤリと笑い、濡れた手拭いをエルシエラの肩に放り投げた。
「いい度胸だ。なら、まずはその山のような皿を全部片付けてもらうよ。泣き言は禁止だよ、エル!」
「はい、喜んで!」
現実は、想像以上に過酷だった。
エルシエラがこれまで触れてきたのは、上質な絹か、冷たい銀の食器だけ。
しかし今、彼女の目の前にあるのは、脂ぎった大量の合成プラスチック皿だ。
洗剤で手が荒れる感覚、立ち上る熱気、そして絶え間なく運ばれてくる汚れ物。
王宮での淑やかな生活からは程遠い労働に、彼女の額にはすぐに汗が滲んだ。
「……っ。これ、どうしてこんなに落ちないのかしら……」
「ははっ、お嬢ちゃん、コツがあるんだよ。こいつを少し混ぜて、一気に擦るんだ」
隣で野菜を刻んでいた若手のクルーが、笑いながら教えてくれる。
エルシエラは教わった通りに力を込めた。
皿が綺麗になるたびに、不思議な達成感が胸を満たしていく。
誰かに命令してやらせるのではなく、自分の手で何かを成し遂げる喜び。
それは、彼女が十八年間、一度も味わったことのない感覚だった。
昼前には、掃除の時間がやってきた。
彼女はモップを手に、広大な格納庫の床を磨き始めた。
巨大な戦闘機の影で、クルーたちがエンジンの整備をしている。
その傍らで、彼女は一心不乱に床を磨き続けた。
「おいおい、そこまで必死にならなくてもいいぜ。船長が怒るだろ」
整備士の一人が声をかける。
「いいえ。カイ……いえ、船長は『自由の船』だと言いました。……働かないで、ただ守られるだけの自由なんて、本物じゃないわ」
その言葉に、作業をしていた男たちが手を止め、感心したように彼女を見た。
最初は「船長が拾ってきた着せ替え人形」だと思っていた彼らの目が、次第に変化していく。
彼女の美しさは、ただ飾られるためのものではなく、その芯の強さから来るものだと気付き始めたのだ。
その様子を、ブリッジのバルコニーから見下ろしている影があった。
カイザルだ。
彼は腕を組み、不器用ながらも必死にモップを動かすエルシエラの姿を、黙って見つめていた。
冷淡な彼の唇に、かすかな微笑が浮かぶ。
「……案外、根性があるな」
彼が知る皇女という人種は、もっと脆く、他人の献身を当然だと思っている連中ばかりだった。
だが、彼女は違う。
自分の置かれた状況を受け入れ、自らの手で居場所を作ろうとしている。
その大胆な適応力に、彼は改めて興味を惹かれていた。
午後の仕事は、ランドリールームでの洗濯だった。
リベレイターの乗員は数百人に及ぶ。
自動洗浄機があるとはいえ、繊細な調整が必要な制服や、特殊な繊維の防護服は手作業での処理が必要だった。
エルシエラは、洗剤の泡にまみれながら、大量の衣類と格闘していた。
「……あ、これは……」
洗濯物の中に、一枚の漆黒のコートを見つけた。
カイザルが昨日、彼女を助ける時に着ていたものだ。
エルシエラはそれを手に取り、そっと広げてみた。
重厚な革の重み、そして微かに残る、彼自身の匂い。
火薬と、潮風と、そしてどこか切ない孤独の香り。
「何をぼーっとしてるんだい?」
背後から声をかけられ、エルシエラは飛び上がった。
いつの間にか、カイザルがランドリールームの入り口に立っていたのだ。
彼は壁に寄りかかり、汗で後れ毛が頬に張り付いた彼女を、可笑しそうに見ている。
「……べ、別に。……ただ、このコート、少し綻びがあるなと思って」
「ああ、そいつか。激しい戦いが多いからな。海賊にゃ、針仕事なんてできる奴はいねえよ」
「……私、できるわ。……これくらいなら」
エルシエラはコートを抱え直し、彼を真っ直ぐに見上げた。
皇女の教養として、刺繍や裁縫は完璧に叩き込まれている。
それをこんな形で活かせるとは思わなかったが、彼のために何かをしたいという衝動を、抑えることができなかった。
「ほう。なら、頼もうか。……ただし、あまり根を詰めるなよ。……手が荒れているじゃないか」
カイザルが歩み寄り、彼女の右手を取った。
慣れない水仕事で赤くなった指先。
彼はその繊細な指を、大きな掌で包み込んだ。
冷淡な彼の瞳に、一瞬だけ、切実な慈しみが過る。
「……大丈夫。……これくらい、平気よ。……私、今、すごく楽しいの」
「楽しい……? 洗濯がか?」
「ええ。……誰かの役に立てている。……自分が必要とされている。……そう感じられるのは、王宮では一度もなかったことだから」
エルシエラの言葉は、カイザルの胸の奥、深く閉ざした部分に触れた。
彼もまた、王子の地位を捨て、ただの一人の男として認められるために、この宇宙の荒波に飛び出した身だ。
二人の境遇は、皮肉にも似通っていた。
夜。
作業を終えたエルシエラは、食堂の片隅で針を動かしていた。
カイザルのコートの綻びを、一針一針、丁寧に補修していく。
その仕草は優雅で、周囲で酒を飲む海賊たちも、その美しさに息を呑んで見入っていた。
騒がしかった食堂が、彼女の周りだけ、静かな聖域のようになっている。
「……できたわ」
最後の一刺しを終え、彼女は満足そうに微笑んだ。
綻びはどこにあったかわからないほど完璧に修復され、さらにその裏地には、密かに小さな、幸運を祈る銀色の糸の刺繍が施されていた。
彼女なりの、精一杯の感謝の印。
そこへ、一人の少女が駆け寄ってきた。
船の通信士を務める十代半ばの少女、ミナだ。
「エルさん! すごい、綺麗……! 私も、そんな風にできるようになれるかな?」
「ええ、もちろんよ。……教えてあげましょうか?」
「本当!? やったあ! ……ねえ、エルさん。……本当は、どこから来たの?」
ミナの無邪気な問いに、エルシエラは一瞬言葉を詰まらせた。
真実を言えば、この穏やかな空気は壊れてしまうだろう。
帝国第二皇女。
この船の男たちの多くが、その圧政に苦しめられ、故郷を追われた人々だ。
もし正体が知れれば、自分は再び憎悪の対象に戻ってしまう。
「……遠い、とても静かな星よ。……でも、そこは冷たすぎて、私は息が詰まりそうだったの」
「そうなんだ……。……でも、リベレイターに来てよかったね! 船長は怖いけど、本当はすごく優しいんだよ。……私たちみたいな、行き場のない奴らを、みんな拾ってくれたんだから」
ミナの話を聞きながら、エルシエラはカイザルという男の深さを改めて知る。
冷淡な仮面の裏に隠された、深い慈愛。
彼は、この広大な銀河で、見捨てられた魂たちの「家族」を作ろうとしているのだ。
「……ええ。……本当に、よかったと思っているわ」
彼女は窓の外、漆黒の宇宙を見つめた。
遠く、帝国の追撃艦が自分を探しているかもしれない。
義理の兄妹たちの影が、この船に迫っているかもしれない。
けれど、今の彼女には、守るべき「日常」と、頼るべき「誰か」がいた。
深夜。
船内が就寝時間に入り、通路の明かりが落とされた頃。
エルシエラは、補修の終わったコートを届けるために、船長室の前までやってきた。
ドアをノックしようとして、中から漏れ聞こえる声に手が止まる。
それは、カイザルと、副官らしき男の低い相談の声だった。
「――帝国軍の動きが活発化している。……例の『アルタリス星系』の包囲網、いよいよ本腰を入れるつもりらしい」
「……あの星には、まだ抵抗勢力が残っている。……俺の故郷を見殺しにはできないな」
カイザルの声には、いつもの余裕が消え、鋭い刃のような響きがあった。
アルタリス星系。
エルシエラはその名を知っていた。
数年前、帝国が強引に併合し、激しい抵抗運動が続いている最前線だ。
そして、そこがカイザルの生まれ故郷であることを、彼女はこの時初めて知った。
(カイの故郷……。……帝国は、そんなことまで……)
彼女の父である皇帝が、そして兄たちが、どれほど多くの人々の「日常」を奪ってきたのか。
自分が享受していた贅沢が、誰の涙の上に成り立っていたのか。
その残酷な現実に、エルシエラは胸を締め付けられるような痛みを感じた。
彼女は、自分が帝国の一員であることを、これほどまでに恥じたことはなかった。
「……だが船長。……あの『お嬢さん』はどうする? 彼女を連れたまま、戦火の中に飛び込むつもりか?」
「……彼女は、俺が守る。……何があってもだ」
カイザルの断固とした口調。
エルシエラは、息を潜めてその言葉を聞いていた。
守られるだけではなく、自分に何ができるのか。
帝国を知り、その内情を理解している自分だからこそ、できることがあるはずだ。
彼女は意を決して、ドアをノックした。
中の会話が止まる。
「……誰だ?」
「エルよ。……コートを持ってきました」
ハッチが開き、カイザルが顔を出した。
彼はエルシエラの手にあるコートを受け取ると、その仕上がりを見て、小さく目を細めた。
「……完璧だ。……ありがとな、エル」
「カイ。……さっきの、聞こえてしまったわ。……アルタリスへ行くのね?」
カイザルは一瞬、険しい表情を見せたが、すぐに溜息をついて彼女を中に招き入れた。
船長室は、数え切れないほどのデータモニターと、古びた紙の地図で溢れていた。
彼は椅子に深く腰掛け、彼女を真っ直ぐに見つめた。
「ああ、行く。……あそこには、俺が置き去りにしてきた過去がある。……そして、今まさに踏みにじられようとしている仲間たちがいる」
「……私も、連れて行って。……お願い」
「ダメだ。……あそこは、昨日までの追っ手とは比べものにならないほどの激戦区になる。……姫様の遊び場じゃないんだ」
「遊びじゃないわ!」
エルシエラは、彼のデスクを両手で叩いた。
淑やかな皇女らしからぬ、激しい感情の爆発。
彼女の鳶色の瞳が、決意の光で燃え上がっている。
「私は、帝国のやり方を知っている。……兄たちの戦術も、軍の通信コードも、私なら予測できる。……あなたたちの力になれる。……だから、置いていかないで」
カイザルは黙り込んだ。
彼女の正体を知りながら、あえてそれに触れずに接してきた彼にとって、彼女のこの申し出は、一種の「覚悟」の証明に他ならなかった。
彼女は、自分の身の安全よりも、彼と共に戦うことを選んだのだ。
「……死ぬかもしれないぞ。……それでもいいのか?」
「独りで檻の中で生き延びるより、あなたと共に星の海で死ぬ方が、ずっといいわ」
カイザルは、ゆっくりと立ち上がると、彼女の肩を強く抱き寄せた。
その強引な力強さは、もはや「客人」に対するものではなく、
「同志」として、そして「愛する女」に対するものへと変わりつつあった。
「……いいだろう。……存分に暴れてもらうぜ、お嬢さん。……俺の隣でな」
窓の外、アルタリスへと続く星道が、赤く妖しく輝いていた。
二人の運命は、今、銀河の争乱という巨大な渦へと、深く沈み込んでいく。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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