第一章 ハーバー・クラウンの朝
群島最大の拠点都市
その名は、王冠のように海に浮かぶ人工島群の中核都市を意味する。
青銅製の灯台が朝靄の中にぼんやりと輝き、無数の貨物船と漁船が波間に揺れる。工房の煙突からは鉄と油の匂いが漂い、人々の喧騒が港の空気に溶けていく。
まるで何もかもが、生きているかのようだった。
その喧騒のただ中、ひとりの青年が、踏みしめるように港の石畳を歩いていた。
俺の名前はカイル・レオンハルト。粗末な布地の上着に海風で褪せたズボン。背に剣すらない俺の姿は、傍目にはただの労働者にしか見えないだろう。だがこの胸の奥には、消えることのない記憶の炎が燃え続けている。
「……ここが、始まりの場所か」
港の雑踏に混じる声に耳を傾けながら、俺は歩く。魚売りの威勢のいい声、船大工たちの金槌の音、行き交う馬車の車輪が石畳を叩く音。この日常の中に、俺もようやく戻れる。
かつて全てを失った少年が、再び立ち上がろうとしていた。
今日、俺はハンターとして登録するため、ギルド本部に向かっているのだ。
九年の時が過ぎた。あの夜から、俺はずっとこの日のために準備をしてきた。剣の修練、体力作り、そして何より、復讐への意志を研ぎ澄まし続けてきた。
その時――海が"泡立った"。
「あれ? なんか海の色が変だぞ?」
近くの漁師が首をかしげる。俺も視線を海に向けると、波間に不自然な渦が見えた。まるで海底から何かが湧き上がってくるように。
嫌な予感がした。あの夜の記憶が、突然蘇る。
港の西防波堤、碇を下ろしていた漁船が突如として転覆する。
「うわあああああ!」
船上にいた漁師たちの悲鳴が響く。次いで、血のような赤黒い群れが海中から姿を現した。
「スウォーム・ピラニアッ!? この港にかよッ!」
港湾労働者の一人が絶叫した。俺もその名前は知っている。無数の鋭利なヒレと牙を持つ小型魚種
集団行動で群れを成し、獲物を瞬時に骨だけにする"血の暴食者"。本来は外洋の深部に棲むはずの種が、なぜ現れたのか。
「に、逃げろォォォ!」
「港から離れろ!」
「子どもたちを先に!」
パニックが港を支配する。露店の商人たちが慌てて商品を放り出し、釣り人たちが竿を投げ捨てて逃げ惑う。母親が幼い子どもの手を引いて走り、老人が杖をつきながら必死に石段を上る。
「痛ぇ、痛ぇよぉ!」
転覆した漁船から泳いで逃げようとした漁師の一人が、海面で血を流している。ピラニアの群れが彼を取り囲み、鋭い牙で肉を削り取っていく。
「誰か助けてくれ! ハンターはいないのか!」
俺は拳を握りしめた。あの男を助けたい。でも俺には武器がない。ハンターとしての資格もない。また、見ているだけしかできないのか。
その瞬間、甲板の上に一つの影が跳び上がる。
長身、漆黒の軽装鎧、そして鋼のように整った双剣の構える若きハンター、マヘル・ヴァンス。俺と同い年にして、すでに三つの大型種を単独討伐したとされる天才。
「……チッ。今日もモブの歓迎は派手だな」
俺の名前はマヘル・ヴァンス。A級ハンターとして、この街ではそれなりに名が知られている。
朝一番でギルドに向かう予定だったが、この騒ぎだ。仕方ない、少し運動をするか。
俺は愛剣『双牙』を抜く。右手に『牙王』、左手に『牙妃』。この二振りで俺は数々のモンスターを屠ってきた。
海面をざわめかせる赤い群れを見下ろしながら、俺は冷静に状況を判断する。スウォーム・ピラニア、約二十体。水中戦は不利だが、奴らが跳び上がった瞬間を狙えば
「見てろよ、モブ共が、これが"本物のハンター"だ」
俺は港の縁から海面に向かって跳躍する。空中で双剣を交差させ、最初に飛び出したピラニア数体を瞬時に斬り裂いた。血飛沫が舞い、肉片が宙で踊っる。
「うおおおお! すげぇ!」
「あれが噂のヴァンスか!」
群衆の歓声が聞こえるが、俺は集中を切らさない。海面に着水すると同時に、水を蹴って次の標的に向かう。
俺の身のこなしは鋭く、動作も無駄がない、まるで舞踏のようだと、自分でも思う。
そして飛び散る海水の中を駆け、血飛沫と咆哮の中を切り裂く。これが俺の戦闘スタイル、『双牙流』だ。
「助けてくれ……」
溺れかけている漁師の男を一瞥する。まだ息はある。なら、まずは脅威を排除するのが先決だ。
俺は残りのピラニアたちに向かって『双牙連斬』を放つ。縦横に走る斬撃が海面を裂き、赤い群れを一掃していく。
「まるで舞踏のようだ」
ヴァンスの動きは確かに凄まじい。だが俺の心は複雑だ。彼の技術に感嘆する一方で、胸の奥で何かが疼いている。
嫉妬だろうか。それとも、悔しさか。
拳を強く握りしめる。
かつて自分が守れなかったもの。
何もできず、ただ立ち尽くしていたあの夜。
それを思い出すたびに、胸の奥が焼けるように痛む。
「カッコいい……」
「さすがA級ハンター!」
周囲の人々が興奮している。確かにヴァンスは強い。でも俺は知っている。本当の脅威がどれほど恐ろしいものか。あの深海神と比べれば、こんなピラニアなど。
だが今、俺の瞳には、確かな"火"が灯っていた。
「……俺も、もうすぐいける。あの場所へ」
ヴァンスが最後の一体を斬り捨てると、港に静寂が戻った。駆けつけた救助隊が、負傷した漁師を引き上げ、港湾労働者たちが後片付けを始める。
「ありがとうございました、ヴァンスさん!」
「また助けられました!」
人々が彼を取り囲んで感謝を述べている。だかヴァンス自身は表情を変えず、淡々と双剣を鞘に収める。
「当然のことをしただけだ」
そう言って、彼は群衆を掻き分けて歩き去る。その背中は、なぜか孤独に見えた。
俺もまた、歩を進める。やがてハンターギルドの旗が、風にたなびいているのが見える。
血に濡れた波止場の上、瓦礫の先に聳えるギルド本部の塔。
その塔を見上げながら、俺は決意を新たにする。
「俺もハンターになる。そして、いつかあの深海神と」
港の喧騒が再び戻ってくる。でも俺の心は、すでに遠い戦場を見据えていた。
彼の戦いが、ようやく始まろうとしていた。