第十七章 月夜の覚醒
その夜、ヴァインヘイヴン島の空には、雲が淡く散らばり、星々の光を隠したり覗かせたりしていた。夕餉の席は、ささやかながらも和やかであった。ダンの母マリアは落ち着いた声音で日常の話を語り、リオは笑いを交えながら返す。
私は、息子を失った悲しみを消すことは出来なかったが、少し心が軽くなり、久しぶりに、人の温もりを感じていた。
俺、リオは軽い話題で場を和ませようと今日の出来事を話した。
「そういえば、この家に来る途中、島の市場で珍しい魚を見かけたんですよ」
カイルの表情が少し硬いのが気になったが、二歳のエミリーちゃんが、アイシャさんの膝にしがみつき、時折、無邪気な笑顔を浮かべて皆を和ませていた。
「ママ、ママ……」
私はママの膝の上で甘えていた。
みんな優しそうな人だけど、パパはどこにいるの?
私は、ダン妻として、明るく振る舞わなければならない。
「エミリー、お行儀よくしなさい」
私は娘に注意するが、夫を失った悲しみと、カイルさんへの不思議な感情が混じり、内心は複雑。
やがて夕食が終わり、皆寝床につき、家の中は静寂に包まれる中、俺、カイルは、胸の奥に溜まる思いのせいで、目が冴えていた。
アイシャのことが頭から離れない。彼女はリアで間違いないが、今は、ダンの妻で、二児の母だ。だから、俺はどうすればいいのだろう。
俺は、思いを整理する為に、ランスと一緒に、そっと寝床を抜け出した。
クゥン、クゥン
カイルが起きた。一緒にお散歩しよう。
カイルが悩んでいるのが分かるから、僕も眠れなかった。。
庭に出ると、昼間陽光を浴びていた黄色いチューリップが月明かりに淡く照らされ、その間を吹き抜ける風には、遠い海の匂いが混じっていた。
黄色いチューリップ。ダンがアイシャに贈った花であり、俺の故郷でも咲いていた花。
そのせいか、不思議な運命を感じる。
俺は風が頬を撫でる中、ランスと一緒に足を進め、島の中を見てまわった時ふと、椿が咲き誇る一角から、かすかな泣き声が耳に届いた。
ワン?
涙の匂いがする。
カイル、あっちの方だよ。
足を止めた俺は慎重に近づき、その声の主を見つけると――そこにいたのは、リアだった。昼間、彼女は毅然と振る舞っていたが、今はただ、心細い少女のように肩を震わせていた。
私はカイルさんが、来るまで椿の花の前で一人泣いていた。
昼間は気丈に振る舞えたのに、夜になると、夫のことを思い出して、涙が止まらなくなってしまう。
「ダン……どうして私たちを残して行ってしまったの……」
俺はそっと声をかけた。
「どうして……泣いているんですか?」
俺の問いかけに対して、リアは涙を拭いもせず、答えた。
「昼間は……平気なふりが出来たんですが……夜になると……思い出してしまうんです。あの人のことを……」
私はカイルさんになら、弱い部分を見せても大丈夫な気がして、正直に話した。
なぜだろう、この人といると、心が落ち着く。
俺は、リアの言葉に胸が締め付けられ、ためらいながらも、口を開いた。
「……大丈夫です。俺が、そばにいますから」
俺は、リアの悲しみを少しでも軽くしてあげたい。
それが友人として、それとも……
そう言って俺は彼女をそっと抱き寄せた。
しばらくの間、リアは俺の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らし、やがて涙が収まると、かすかな笑みを浮かべて小さく礼を述べた。
「……ありがとう、カイルさん」
その笑みに、俺もまた柔らかな微笑みを返した。
――「俺がいなくても、心から笑い合える人を見つけてくれ」
カイルさんの微笑みを見た後、私の耳元で、確かに、亡き夫の声が、聞こえた。
「……え……今……」
私は、その声に驚いて辺りを見渡した、次の瞬間、鋭い痛みが頭を貫いのです。
「……っ!……頭が……痛い」
突然の耐えきれぬ苦痛に、地に膝をつき、両手で頭を抱えると同時に、頭の中で、何かが弾けるような感覚がした。
「記憶が……記憶が戻ってくる……」
ワンワン!
大変だ! アイシャさんが苦しんでいる!
僕にはどうすることもできないからカイル、助けてあげて!
「アイシャさん! どうしたんですか!?」
俺は慌てて、倒れ込む彼女を支える。
一体何が起きているんだ。まさか病気?
「大丈夫ですか!? しっかりして!」
やがて痛みが収まり、リアは、瞳を大きく見開く。その姿には確かな変化があった。
「思い出しました……私……全部……」
記憶が戻った、全部、思い出した。
「私の名前は……リア……リア=ホーエンハイム。
そして、目の前にいるこの人は……カイル、私の初恋の人。
「……思い出しました。私……全部……」
俺は、その言葉を受け、リアと二人で、目を見つめ合い、事実を確認し合った。
「アイシャ……いや……リア?……君は……本当にリアなのか?」
俺は恐る恐る尋ねる。
「そうよ……カイル、私が、リアよ。」
私は涙を浮かべながら、カイルに向かって答えた。
「あの夜、津波に呑まれて……そして、気がついたら砂浜にいて……」
「そんなことはどうでもいい!俺は……俺は、ずっと君が死んだと思ってた……だから、本当に……よかった!」
俺は、喜びのあまり、彼女の手を取った。
そして、気づけば、視線が重なり、俺たちを取り巻く空気も甘くなり、距離が縮まる。
カイルの顔が近づいてきたので、私も自然と顔を近づけてしまう。
(初恋の人……私が本当に愛していた人……)
リア……俺の初恋の人……
唇が触れ合いそうになったその刹那――俺たち、二人は同時に我に返った。
息を詰め、互いに視線を逸らすと、夜の風が、気まずさを包み隠すように吹き抜けた。
「ごめんなさい……私……」
私は慌てて距離を取る。
(私はダンの妻で、二児の母、こんなことをしてはいけない)
俺も慌てて距離を取る。
「いや、俺の方こそ……ごめん」
(彼女はダン……親友の妻だ。こんなことをしてはいけない)
しばらくして、俺は小さく息を整え、決意を固めたように口を開いた。
「マリアさんも、リオも、そしてエミリーちゃんも混乱してしまうかもしれないから……しばらくは、記憶が戻っていないふりをしてくれ、その方が……きっといい」
そして、俺は少し間を空けて続けた。
「………時が来るまで、秘密にしておこう!」
「分かりました……」
私は、カイルの言葉に、小さく頷いた。
この秘密を、カイルと二人だけで抱えるのは、正直辛いが、確かに、今は、記憶が戻ったことを隠すのがいいのはわかる。
月光は冷たかったが、どこか優しく、俺たち二人を照らしてくれている気がした。
クゥン、クゥン
カイルとアイシャさんが、悲しい匂いと、嬉しい匂いと、困った匂いが混じった、複雑な匂いを出している。
僕にはよく分からないけど、カイルが苦しんでいるのは分かる。
ーー椿の花が夜風に揺れ、俺たち二人の間に、静寂が流れた。