第十四章 チューリップの庭にて
午前10時、ヴァインヘイヴン島行きの船がハーバー・クラウンの港を大きな汽笛が震わせ、白い波を切り裂きながら、ゆっくりと岸を離れる。
その船の甲板に立つ四人ーー俺、カイル、リオ、カルド、ヴィスの肌を、潮風が撫で、背後には徐々に遠ざかる港の街。
ワンワン!
(船が揺れる!どこへ行くんだろう。)
「三時間の船旅だ。暇つぶしに少し話すか」
カルドがそう切り出し、船べりにもたれた。
俺にとって、故郷に帰るのは久しぶりだ。
「ひとつ言っておくことがある……ダンの母さん、マリアさんは本当に厳格な人で、少し気難しい人だ。だから、あんまり軽口は叩かないほうがいい。」
これは二人に、警告しておく必要があることだ。
「昔、俺たちが悪さをした時は、マリアさんにげんこつを食らったものだ。」
その言葉にヴィスもうなずく。
「特に、カルドが悪戯をした時は大変だったね。」
私は苦笑いを浮かべる。
今も、マリアさんのことを思い出すと、私は、少し緊張する。
するとリオが、二人の話を聞いて、首を傾げて尋ねた。
俺は、ふと疑問に思ったことがあった。
「そういえば、アイシャさんの名前って……ご本人は記憶を失っているんだよね? なら、誰がその名前をつけたの?」
記憶を失った人に、誰がどうやって名前をつけるんだろう。
カルドは少し間を置いてから答えた。
「マリアさんだ。あの人、アイシャって花が好きでな。それに、見た目も良かったし、いずれダンの嫁に……って、そういう経緯だ」
少し複雑な事情だが、俺は正直に話す。
「マリアさんは最初から、アイシャちゃんをダンの許嫁として家に迎えるつもりだったんだ。きっと!」
俺とリオは顔を見合わせ、微妙な戸惑いを覚えた。名付けが、そんな風に――。
許嫁として迎えた、か。記憶を失った少女を。
それは愛情なのか、それとも別の何かなのか。
俺には判断がつかない。でも、ダンがアイシャを愛していたのは確かだ。
少し嫌な気分だ。記憶を失った少女を、許嫁として名前をつけて迎える。
愛情深いと言えるのか、それとも一方的と言うべきなのか。
でも、結果的にダンとアイシャさんは幸せだったようだから、良かったのかもしれない。
三時間後、船はヴァインヘイヴン島の小さな港に着いた。
「ようやく、久しぶりの故郷に、着いた!」
私は船から降りながら言う。。
「カイル、リオ、この島は、とても美しい島なんだ」
私は二人に故郷を紹介する。
桟橋から続く道を歩き、カルドとヴィスの案内で島の奥へ進む。やがて、春の陽光が降り注ぎ、草花の香りが漂う中、一軒の家が見えてきた。
クゥン、クゥン
新しい匂いがたくさんする!
お花の甘い匂い、土の匂い、そして……女性の匂いがする。優しそうな匂いだ。
庭の中央には、黄色いチューリップが一面に咲き誇り、その中で一人の女性が如雨露を傾けていた。その横顔を見た瞬間、俺の胸が締めつけられ、息を呑む。間違いない。あの横顔、あの金髪、あの青い瞳。初恋の人、リアだ。
でもきっと、記憶を失っている彼女は、俺のことを覚えていないだろう。
私は、ダンの妻、アイシャ。
庭で黄色いチューリップに水をやっていると、カルドとヴィスと一緒に、見知らぬ二人の男性がやってきた。
一人は技術者のような格好で、もう一人は、肩に布で覆われた斧のようなものをかけていた。
肩に斧のようなものをかけた青年を見た時、なぜか胸がざわついたのを感じた。
どこかで会ったことがあるような……でも、思い出せない。
本当に、彼女の瞳には俺への記憶の影すらない。
だから、俺は平静を装いながら、カルドとヴィスに「彼女は誰だ?」と尋ねた。
カイルとリオが、アイシャさんを知らないふりをしている。
まあ、初めて会うのだから当然か。
「ダンの妻、アイシャちゃんだ」
俺は当然のように答える。
私も付け加える。
「ダンが心から愛していた女性だよ。」
私の言葉に、カイルの表情が少し変わったような気がする。
(何かあったのだろうか?)
当然のように「ダンの妻、アイシャだ」という答えが返ってくるので、胸の奥に、静かな痛みが広がった。
その気配を察したのか、リオが低く囁く。
カイルの表情を見て、俺は、何かあったと直感した。
「……大丈夫か?」
俺は小声で尋ねる。カイルの表情が明らかに変わった。
俺はただ小さくうなずいた。
「初めまして、私はアイシャです」
彼女は優雅に頭を下げる。
「私はカイル・レオンハルト。ダンとは……ハンター試験中に、知り合いました。」
俺は平静を装う。
「リオ・アルデンです。」
リオも丁寧に挨拶する。
ひととおり自己紹介が終わったとき、アイシャが静かに、呟いた。
「ダン……夫は、どこに?」
私は夫の姿が見えないことに気づき、四人に尋ねた。
すると、カルドとヴィスの表情が急に暗くなる。夫の身に何かあったのでしょうか。
俺は肩にかけていた布をめくり、譲り受けたダンの斧を見せた。
「これは、ダンから託されたものです」
俺がダンの斧を見せた後、アイシャの表情が変わるのが分かった。
彼女は、ダンがもうこの世にいないことを察したのだろう。
その斧を見た瞬間、私は理解した。
ダンは……夫はもう帰ってこないのだと。
胸が締めつけられるような痛みを感じるのに、涙が出ない。なぜだろう、悲しいはずなのに。
その瞬間、家の奥から年配の女性――ダンの母が庭へ出てきた。
私は、ダンの母親のマリア・マーフィー。
庭で話し声が聞こえたので、外に出るとカルドとヴィス、そして見知らぬ二人の男性が、嫁のアイシャと話しているのが見えた。内一人は息子の斧を持っていたので、息子はもう帰ってこないのだと感じた。
だから、私は、庭で話すのではなく、家で話すよう五人に言った。
「庭で話すようなことではないので、五人とも、家に入りなさい。」
彼女の言葉は短く、しかし抗えぬ圧を帯びていた。
俺とリオ、カルド、ヴィスの四人はダンの母親の案内で、先に客間へ通された。
「客間まで、案内しますので、息子のことを、詳しく聞かせてください」
きっと、辛い話になるでしょう。でも、知らなければならない、それが母である私の責務だから。
マリアさんの表情を見て、俺は胸が痛む。
(息子を失った母親の気持ちを考えると、何と言えばいいのか分からない。)
私もきっと、皆と同じ気持ちだろう。
(ダンが勇敢に戦い、仲間を守って死んだ最期を、どう話せばいいのか。)
やがて、状況を察したアイシャが、二人の娘を寝かしつけてから、静かに部屋へ入ってきた。
私は、エミリーとソフィアを寝かしつけてから、愛する夫の最期を詳しく聞かせてくれると思い、心の準備をして、客間に向かった。
クゥン、クゥン
みんなの匂いが悲しくなってる。
僕にはよく分からないけど、特にカイルの匂いが、とても複雑だ。
だから、そばにいて、支えてあげなくちゃ。
扉が閉じ、室内に春の光が柔らかく差し込んだところで、辛い現実を告げる時が来た。
俺は深呼吸する。
(これから、アイシャ……いや、リアに、ダンの最期について話さなければならない。
だから、彼女が俺の初恋の人であることは、心の奥にしまっておこう。)
重い空気が部屋を包んでいる。
カイルの支えになれるよう、俺は、頑張らなければならない。
辛い現実を分かち合い、真実を伝えた上で、家族を支え、前へ進む。それが、ダンとの約束を果たすことなのだ。