プロローグ ― 覇声、海より来たる ―
夜の海は、静寂という名の黒い獣のようだった。
波一つ立たぬ鏡のような水面。だがその深奥には、言葉では語れぬ"意志"が潜んでいる。星の瞬きも止まり、風が止まり、鳥たちは飛ぶことを忘れる。まるで世界そのものが、何かを察して息をひそめているかのように。
それは"前兆"だった。
遠く水平線の向こう、海の地平が盛り上がる。
それは幻覚ではなかった。大地が沈むように、海が「何か」に押し上げられていく。夜の闇を裂いて、天を突くように現れた巨大な"背鰭"。
光も届かぬ深海から、それはゆっくりと、だが確実に浮上してきた。
深海神。
俺は、その瞬間を覚えている。十歳だった俺の目に映ったあの光景を、今でも鮮明に思い出せる。
体長一キロを超える黒の巨影。海面が裂け、津波が島を飲み込み、島の輪郭そのものが崩れ落ちる。母さんは俺の手を握りしめ、父さんは何かを叫んでいる。でも、父さんの声は咆哮にかき消され、届かなかった。
咆哮は空気を震わせ、大気すら焼きつくすかのようだった。言葉も、祈りも、悲鳴も、ただの無音と化す。
それは"災厄"ではなく"意思"だった。
そう、この世界を拒絶する、”神の意志”。
「カイル!」
だが母さんの声だけは聞こえた。それが最後だったからか。
津波が押し寄せる中、俺は母さんによって高台の岩場に押し上げられていた。偶然だったのか、あの神が俺を選んだのか。
髪は海水に濡れ、指は震え、喉は凍りついて声すら出せない。
家族は…仲間は…住んでいた村ごと、海に呑まれた。
海の神は、何かを伝えるようにその瞳を少年だった俺に向け、静かに深海へと消えていった。
その瞳は蒼かった。深海のように、深く、冷たく、そして――悲しげだった。
「なんで…なんで俺だけ…」
声にならない声で、俺は呟いた。潮の匂いと、血の匂いと、死の匂いが混じり合った夜の中で。
残されたのは沈黙と、俺ひとりの命。
名をカイル・レオンハルト。
この日、俺の世界は、終わった。
そして同時に、新たな戦いが、始まった日でもあった。
「次にあいつが現れたとき、今度は…俺が、立ち向かう」
それは自分への誓いだったし復讐への誓いでもあった。でも今にして思えば、それだけではなかった。あの蒼い瞳が伝えようとしていた何かを。
九年後。
「おい、新人! ぼんやりしてんじゃねぇぞ!」
グレッグ隊長の野太い声が、俺を現実に引き戻す。ここは狩猟団《鉄牙隊》の拠点。アストレア群島、中央の巨大港湾都市「ハーバー・クラウン」島の端にある港だ。
「すみません、隊長」
俺は慌てて装備を整える。今日は甲羅を持つ中型のカニ型モンスター《シェル・クローラー》の討伐任務だ。でも、俺の頭の中にはまだあの夜の記憶がこびりついている。
「カイル、大丈夫?」
セリナが心配そうに声をかけてくる。赤みのある長髪をポニーテールにまとめた彼女は、チームの癒し系だ。でも弓の腕前は一流で、百メートル先の的も外したことがない。
「はい、問題ないです。」
俺は苦笑いを浮かべる。問題がないわけがないが。あの日から、俺は常に海を見つめ続けている。いつかまた現れるあの神を、俺は待ち続けているから。
「カイル、過去に囚われるのは良くないよ」
ランスロットが静かに口を開く。イケメン黒髪ポニーテールの彼は俺より13歳年上で、ランスとシールドの達人。口数は少ないが、的確なアドバイスをくれる。
「いいえ、これは今と未来の話です」 と俺は彼に向け呟く。
「へへ、カイルったら相変わらず重いなぁ。もっと気楽にいこうぜ!」
陽気な声で割り込んできたのはリオだ。俺の一歳上の爆弾好き罠師。彼はいつも笑顔を絶やさない。でもその爆弾の威力は、そこら辺のドラゴンのブレスより強力だ。
「よし、出発だ!」
グレッグ隊長の号令で、俺たちは港を後にする。青い海原に小舟を浮かべ、討伐ポイントへ向かう。
だが俺は知っている。この平穏な日常も、いつかは終わる。海の向こうから、再び"神"が現れる日が来ることを。
そしてその遥か彼方、蒼く揺らめく深海で、再び、何かが目覚めようとしていた。
「今度こそ、逃げはしない」
俺は心の中で誓う。剣の柄を握りしめながら。
これは、世界の均衡を揺るがす、深海神との最終決戦に至る物語の始まりである。