時軸ヘマる
〈河童忌や我「或ル阿呆」に戻りたり 涙次〉
【ⅰ】
さて、どの時計にしやう。時軸麻之介、浮き足立つてゐた。冥府でのルシフェル様との面會の時間が持てる! 夢のやうだ。これも涙坐ちやんのお蔭... 鳩時計、振り子時計、それとも時間に嚴密なルシフェル様の事だから、最新式のクオーツ時計がいゝか。捧げ物を撰ぶ時軸、懐かしさに胸が一杯になつた。
【ⅱ】
で、ごきぶりが先導してくれるつて? カンテラ一味、だうにも良く分からん。ごきぶりとは勿論「シュー・シャイン」の事である。だが彼は、他郷に出た事のない時軸を、まるで魔法のやうに、魔界から冥府へと連れて行つてくれた。
ルシフェル様-「ご尊顔麗しく」。だが、天國から文字通り地獄へと一氣に突き落とされた時軸を他處に、顔を覺えてゐない、とルシフェルは云ふのだ。「あ、あんまりで御座います」‐めそめそしてゐる時軸を慰めてくれたのは、隣人・木場惠都巳。「ルシフェルさんは殆ど魔界の事は覺えてないのよー」‐その物柔らかな聲は天から降つて來たやうに思へた。
【ⅲ】
で、時軸の惡い癖が出た。病的な惚れ易さである。さつき涙坐ちやんと云つてゐた口で、今度は俺の氷姫、と馴れ馴れしい。皆さん知つての通り* 惠都巳には、枝垂哲平と云ふ、許婚者同様の戀人がゐる。
なに、人間の戀人? そんなの蹴散らしてくれる! だが、それを(實の孫同然に彼らを愛する)冥府の王、ハーデースが聞き逃す譯はなかつた。時軸は即刻、裁判に掛けられた。
* 前シリーズ第196話參照。
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〈やゝ不審水羊羹の一匙に受けた屈辱思ひだすのは 平手みき〉
【ⅳ】
さう、時軸には決定的に冥府の「基礎知識」が欠けてゐた。裁判長はハーデース自身。これではもう敗訴間違ひなしだつた。即刻処刑さるべし。処刑人には、人間界の代表として、カンテラが撰出された‐ と云ふ事は、死刑宣告を受けたも同然だつた。
「カンテラ」の名が出て初めて、己れの取つた行動の淺墓さに氣付いた時軸、「だうか命ばかりは」と乞ふたが、もう遅かつた。冥府ではハーデースの言葉は、須く金言とされ、彼の命令は絶對である。
【ⅴ】
ひた、ひた、ひた。カンテラの跫音が近付く。「もう駄目だー!!」‐カンテラは無表情に剣を拔いた。「しええええええいつ!!」
【ⅵ】
目の前が眞つ暗になつた。が、すぐに外光が仄見えた。「あ、あんた、誰?」‐「俺は此井つて云ふ、カンテラのとこのもんだけど」‐「枝垂- お前さんの云ふ『氷姫』のコレ」と、拇指を立てる。「赦してくれるつてさ。誰にもうつかりミスつてのがあるつて」
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〈短夜の更に短き藥かな 涙次〉
時軸、涙した。髙価なアンティーク時計(無論、ルシフェルへの捧げ物)をじろさんに渡し、「こ、こんな物しかありませんが、ど、だうか」。じろさん、にやりと笑ひ、「ま、罰として当分、涙坐の面談はお預け、だ」虻蜂取らず、とはこの事。‐がつくり項垂れる時軸を置いて(そこは何処か人間界の町だつた。見知らぬ土地に、無一文で獨り。それがカンテラが時軸に與へた刑罰だつた)、じろさん去つて行つた。