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第5話 香りの檻と、暗殺者Ⅱ

「……もしかして、香水が"怖い"んですか?」


 世界が、止まった。



 十五年間。

 誰にも言えなかった。

 自分にも認めたくなかった。

 心の一番奥に、鍵をかけて閉じ込めていた。


 香水が怖い。

 母の香りが怖い。

 自分が何をしているのか、分からなくなるのが怖い。


 でも、それを武器にしなければ、生きていけなかった。

 怖いものを、愛していたものを、殺すための道具にして。

 自分の心を、少しずつ、殺しながら。


 私が殺してきた人数は、数えていない。

 そのほとんどは、香水の香りで息を止めた。

 そして私は、誰にも"気づかれたことがない"まま通り過ぎてきた。


 だけど——この男だけは。

 最初から最後まで、"私を見ていた"。


 涙が、出そうになった。

 十五年ぶりに。


「……あなた、何者なの」

 気づいたら、私はそう問いかけていた。

 震え声で、必死に。


 彼は、少しだけ悲しそうに笑った。

 それは、傍観者の笑みではなかった。

 同じ痛みを知っている人の、笑顔だった。


「雑貨屋のバイトです。地味な」


 そう言って、でも彼は続けた。


「……でも、怖いものを武器にして生きるのが、どれほど辛いかは、分かります」


 私の頬を、涙が伝った。

 十五年間、一度も流さなかった涙が。


「私は……私は……」


 言葉にならない。

 でも、彼は待っていてくれた。

 優しい目で、じっと。


「私は、殺したくなかった。でも、生きるためには……」


 声が、嗄れた。


「母さんの香りで、人を殺すなんて……本当は、やりたくなかった」


 彼は、頷いた。

 それだけで、私は救われた気がした。


 私は逃げ出すように香水棚を離れようとして——

 でも、足が動かなかった。


 十五年間、誰にも理解されなかった。

 でも、今、初めて。

 私の痛みを、分かってくれる人がいる。


 そのまま店を出ようとして、私は振り返る。


 彼は、まだ私を見ていた。

 心配そうに、優しく。


「……今度来るときは、香水じゃなくて、何か別の目的で来るかもね」


 彼は、温かく微笑んだ。


「ええ、お待ちしてます……今度は、お客様として」


 私は、負けた。


 暗殺者として、じゃない。

 十五年もの間、この命を削ってでも守ってきた"私"という仮面が、

 たった一人の雑貨屋バイトに、するりと剥がされた。


 でも、負けて良かった。

 初めて、誰かに見つけてもらえた。

 本当の私を。


 誰にも見抜かれたことがなかった。

 香水に仕込んだ毒も、演技で繕った所作も、完璧な笑顔も。

 すべてが"無傷"で通り抜けてきた。

 それが、誇りだった。

 誇りにしがみつくことでしか、生きられなかった。


 なのに——


 あの男は、私の心を見つけた。

 怖がっている私を、苦しんでいる私を。

 そして、それを責めるのではなく、理解してくれた。


「もしかして、香水が"怖い"んですか?」


 ——どうして、そんな風に言えるの。

 どうして、そんなに優しく聞いてくれるの。


 誰にも知られたくなかった。

 自分ですら、認めたくなかった。

 でも、彼に言い当てられたとき——


 胸の奥が、初めて軽くなった。

 十五年間背負っていた重荷が、少しだけ軽くなった。


 誰かに、分かってほしかったのかもしれない。

 こんな生き方しか選べなかったことを。

 殺すたびに、少しずつ自分が消えていく感覚を。

 それでもなお、生きるために続けていたことを。


 そして、何より。

 母さんの香りが、まだ好きだということを。


 その夜、組織への報告書を破り捨てた。

 手が震えていた。

 これで、私は追われる身になる。

 でも、構わない。


 手元には、ただ一枚の手紙。


 "任務、放棄します。

 あの男には、もう刃は向けられません。

 なぜなら、彼は——

 私が忘れていた「人間らしさ」を、思い出させてくれたから。


 私は、もう誰も殺したくありません。

 母さんの香りで、人を傷つけたくありません。


 これまで、ありがとうございました。

 さようなら。"


 ――ハクア


 組織の名前は、書かなかった。


 これから、私は旅に出る。


 自分の名前も知らない人生だった。

 でも、もしあの人にもう一度会えたなら——

 今度はちゃんと、自分の名前で、笑って「こんにちは」って言いたい。


 香水で殺すんじゃなく、香りで誰かを癒やせるような。

 そんな"もうひとつの生き方"を、少しずつ探してみたい。


 母さんの香りを、愛する香りとして取り戻したい。


 ねぇ、フィン。

 あなたが言ってくれたあの言葉。


「お待ちしてます。今度は、お客様として」


 ——いつか、本当に、お客様として行きます。

 殺すためじゃなく、笑うために。

 偽物の私じゃなく、本当の私として。


 そのときまで、私は頑張る。

 自分の名前を、誇りに思えるように。


 私の名は、ハクア。

 もう"白鴉"じゃない。

 ただの、ハクア。


 母さんの香りを愛していた、女の子。


 この名前を、本当に名乗るための旅を、今、始めよう。



 その日、妙に香りが静かだった。

 棚を整えても、空気に違和感が残っていた。

 香水は何も語らない。でも、何かを“残していった”。


 ふと気づくと、指先が《サイレント・バラ》に触れていた。

 あの危険な香り。

 ——なのに、少しだけ、甘く感じた。


 たぶん、誰かがそこにいた。

 誰かが、何かを隠し、何かを手放していった。

 そういう香りだった。


 名前も知らない。

 何者かもわからない。

 でも、その人がずっと怯えていたことだけは、わかった。


 香水が、怖かったんだろうな。

 それなのに、それを武器に生きていた。

 誰にも言えずに、たったひとりで。


 俺は、見ただけだ。

 何も助けていない。

 ただ、彼女の“仮面”の下にあるものに気づいただけ。


 それでも、もしそれが

 ほんの少しでも救いになったなら——


 彼女がもう一度、香水を“好き”になれたなら。

 今度は誰かを癒す香りを選んでくれるなら。


「――ヤバいお客様でも、大歓迎ですよ」


 小さな笑みと共に、言葉が口をついて出る。


 名前は知らない。

 だけど、きっと、忘れない。

 完璧な所作の奥で、壊れそうに揺れていた、あの目を。


 心を殺して生きてきた、あの人を。


 今日の棚には、少しだけ空きがある。

 そこに、もうひとつだけ香水を置いておいた。

 《エレナ・ブランシュ》

 意味は——「白い希望」


 いつかまた、あの鈴の音が鳴る日が来たら。

 今度は、ただの客として。

 名前を名乗ってくれたら。


 そのときは。

 本当にそのときは——


「ようこそ、ムーア商店へ」

 そう言って、ちゃんと迎えるもの良いかもしれない。

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