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第5話 香りの檻と、暗殺者Ⅰ

 私の名前は、ハクア。

 コードネーム《白鴉》。香りで殺す女。


 そう呼ばれるようになって、十五年になる。

 名乗った覚えはないけれど、組織がそう決めたから仕方ない。

 生まれも、本名も、もうとうに忘れた。

 思い出そうとしても、煙のように抜けていく。

 そんなもの、この仕事には不要だから。


 ……不要だと、思っていた。


 私の専門は香水系。毒も催眠も、錯乱も。

 人は香りに無防備だ。五感のうち、最も自覚しづらい感覚だから。

 たとえ嗅覚が働いていても、脳が処理しない。

 気づいたときには、もう手遅れ。それが"香りの暗殺"。


 そして、私はそれを百戦百勝で成し遂げてきた。


 でも、誰にも言えない秘密がひとつある。


 ——私は、香水が怖い。


 子供の頃、母親が使っていた香水の匂い。

 甘く、優しく、安らぎを与えてくれた香り。

 でも、その母は、私の目の前で殺された。

 香水の匂いが部屋中に立ち込める中で。


 それから十五年。

 私は同じ香りで、何十人もの命を奪った。

 母の香りで。

 愛されていた記憶を、武器に変えて。


 毎回、吐き気がする。

 毎回、手が震える。

 でも、それでも続けてきた。生きるために。


 そんな私の、完璧なはずの人生に、たった一つだけ。

 綻びを作った男がいる。


 名前は、フィン・アルバ=スヴァイン。

 西区の場末の雑貨屋に勤める、地味で目立たない、ただの店員。


 だったはずだ。


 私は任務帰りに高級香水店へ立ち寄り、毒香水の設置を行った。

 当然、誰にも気づかれなかった。

 あの店の支配人も、店員たちも、美しい香りの前に無力だった。


 だが、彼だけが、違った。


 掃除のフリをして、香水の陳列を入れ替えた。

 毒の隣に、強烈な消臭香を。

 香りの拡散を、完璧に封じていた。


 そのとき、初めて思った。

 ——もしかして、救われたのは私の方じゃないか、と。


「ならば確認せよ」

「必要あらば、排除せよ」


 それが、上の返答だった。


 私は今、《ムーア商店》に向かっている。

 殺すために。あの"観察者"を。


 今回は、正式任務。

 報酬も、制限時間も、命令書もある。


 仕込みは万全。

 特殊調香サイレント・バラ——脳の判断力を鈍らせ、筋反射を遅延させる香り。

 効果は短時間ながら致命的。

 初動を封じれば、あとはどうにでもなる。


 でも、手が震えている。

 十五年のキャリアで、初めて。

 本当は、殺したくない。


 衣装は、前回と同じ。

 黒曜石の髪は結い上げ、白磁の肌には一切の粉を乗せず、

 深紅のドレスに、香りは乗せない。

 "無臭の貴婦人"は、警戒されにくい。


 ただの雑貨屋で、ただの地味な男に、完璧な女が現れる。

 きっと彼にもこれが挑戦だと一目でわかる。


 私は扉を押した。

 音もなく開く。


 カラン、と鈴の音。

 静かな、平和な、凡庸な音。


 彼はいた。

 今日も変わらず、ほうきを手にしていた。


 それだけのはずなのに——


 胸が、痛くなった。

 なぜか、心臓が、苦しくなった。


「……こんにちは。香水、見せてもらえるかしら」


 私は完璧に微笑む。声も柔らかく、仕草も品良く。

 演じるのは得意だ。私は十五年、それだけで生きてきたのだから。


 彼は一歩前に出る。

 視線が、私を"観察"している。


 その目が、私は——怖かった。


 十五年間、誰にも見抜かれたことがなかった。

 完璧な演技で、完璧な殺人を、完璧に隠し通してきた。

 でも、あの目は違う。

 まるで、私のすべてを知っているかのような——


「ええと……お探しの香水の系統は?」

 彼が問いかける。声に敵意はない。ただの接客。

 ……だが、その手が動く。


 掃除道具を置き、香水棚の一角に目をやった。


 ——そこは、私が仕込んだ位置。


 また、だった。


「この辺り、少し香りが強すぎますね」

 そう呟くと、何のためらいもなく、指先でボトルの配置を変える。

 そして、棚の下段から——強烈な脱臭香水を取り出し、その横に添えた。


 私は震えた。

 十五年間で、初めて。


 彼は何も言わない。ただ、当然のように、"異変"を整えた。

 まるで、「これが日常だ」とでも言いたげに。

 まるで、私の殺意を、ただの"間違い"として片付けるように。


「この香り、たしか《サイレント・バラ》ですね」


 ボトルの底を指先でなぞり、彼が言った。


「最近は再流通品が増えてるみたいですが、配合比率が微妙に変わってます。微細なラベンダー系が足されてる……鎮静効果が強すぎるかも」


 私は——息ができなくなった。


(本当に何者? なぜ分かる? この香りは……調香ルートも特殊で、市場には出回っていない)


「気をつけた方がいいですよ。精神に干渉する香りは、慢性的に嗅ぐと意思決定に影響します」


 彼は静かに呟く。


「……あと、"事故"に使われた記録もあるみたいですし」


 目が、私を刺してくる。

 でも、それは優しい目だった。


 心配そうに、まるで私を——"救おう"としているような。


「あなた、前にもお会いしましたね? この店ではありませんでしたけど」


 彼が、静かに続ける。


「そのときも、香水の棚、妙に見ておられた気がして」


 言い逃れしようと、口が動く前に——彼は、言った。


「……もしかして、香水が"怖い"んですか?」


 世界が、止まった。

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