第4話 獣人と地味バイトⅠ
朝のムーア商店は、今日もいつも通りの混沌だった。
干し魚の骨、玄関マットの下の羽根、そして棚の奥に鎮座する常連——永遠のコーヒー豆。もう神棚にでも祀ったほうがいいかもしれない。
「……そろそろ、まともな客が来てくれてもいいと思うんだが」
俺は祈るようにほうきを握った。
先週は暗殺者、その後は悪役令嬢、そして未来の勇者。今日こそは——
カラン……と、鈴の音。
その瞬間、空気が変わった。
血と薬草と鉄土の匂いが、店内の湿気と混じって異様に鼻を刺す。獣の気配。獣人だ——だが、ただの獣人じゃない。
扉の奥から現れたのは、犬系の獣人。
だが、肩には乾いた血の跡、片目の周囲には風化した古傷、そして右手の指は——まるで獣の爪そのものだった。
その背に担いだ木箱は、まるで棺桶のように無言の威圧感を放っている。
これは……ヤバい。
何がヤバいって、この切羽詰まった雰囲気がヤバい。
放っておくと人を殺しそうな雰囲気すらある。
いや、違うな——これは“追い詰められている”感じだ。
「いらっしゃいませ。何かご用ですか」
震える声を抑えつつ、俺は入ってきた獣人に声をかける。
「これ、売れるか」
低くくぐもった声。
犬系の獣人。性別は男。
茶色の短毛、垂れ耳、旅装束に近い粗末な外衣。
左腕に抱えた木箱を、そっとカウンターに置く。
王都に住んでいる訳じゃなさそうだ。
まず、足音。店に入る前の3歩——左足を僅かに引きずっている。長距離歩行による筋肉疲労。期間は……足の運び方から判断して、最低でも10日以上。
次に、外衣の汚れ。肩と袖に付着した黄砂の粒子。粒の大きさと色調から、南方の山岳地帯特有のもの。さらに、革靴の底に薄く固まった赤い土——鉄分を多く含む山土。
(南の山岳地帯から、徒歩で10日以上……)
そして決定的なのは、被毛の状態だ。毛先が僅かに白っぽく変色している。これは高地の紫外線による日焼け。しかも、乾燥の仕方が独特だ。湿度の低い高山気候に長期間晒された証拠。
(フェンリス高地。間違いない)
フェンリス高地——狼王ガルムが治める獣人の国。標高3000メートルの山岳地帯。王都との交流は皆無に等しい。
だが、それよりも気になったのは青年の行動パターンだ。
店内を見回す視線の動き——商品棚ではなく、出入口と窓の位置を確認している。警戒している。だが、敵意ではない。これは……
俺は肩の力を抜いて、青年に話しかけた。観察で安全な人物だろうとわかってはいても、怖い物は怖い。
「内容、確認しても?」
青年は一瞬躊躇してから、うなずいた。その時の尻尾の動き——2回、小刻みに揺れた。獣人の生理的反応。緊張と期待が混在している。
(何かを賭けて、ここまで来た?)
木箱を開ける。中には小さな紙包みが十数個、規則正しく並んでいる。
包みを一つ開く。すり潰された薬草のペースト。色は茶緑色で、質感は……指で触れてみる。
「……これは」
まず香り。甘い匂いの下に隠れた、わずかな苦味。これはホンシンソウ——強壮剤の主成分。
次に、ペーストの粘性。通常より粘り気が強い。何かを混ぜている。指先に取って舌先で確認——僅かな痺れ。
「ホンシンソウに……グレ根、それからヤメミ草?」
「……あってる」
青年の瞳が、僅かに見開かれた。驚いている。薬草を一舐めしただけで、全成分を当てられるとは思わなかったのだろう。
だが、この組み合わせは妙だった。
ホンシンソウ——体力増強、免疫力向上
グレ根——解熱、鎮静作用
ヤメミ草——神経安定、睡眠導入
通常、強壮剤と鎮静剤を同時に使うことはない。相反する効果だからだ。
では、なぜこの組み合わせなのか?
答えは一つ——「熱を下げつつ、体力を維持したい」状況。
しかも、包装の丁寧さを見る限り、これは商売用ではない。紙の折り方、封の仕方——全て同じ人間の手によるもの。そして、その手は……
青年が薬包みの一つを、親指でそっと撫でた。その指先が、わずかに湿っている。
(発汗。しかも手のひらではなく、指先だけ。これは精神的緊張による局所発汗——3日以内に強いストレスを経験した証拠)
さらに、その撫で方。まるで大切な何かを確かめるような、慈愛に満ちた動作。
「……誰かが、病気なんですね」
青年の動きが、ぴたりと止まった。
しばらく黙ったまま、視線を落とす。
「妹だ」
声が掠れていた。
「薬が……もう、効かない。王都なら、何か……」
(薬が効かない病気。しかも、獣人の調合技術では対処できない症状。魔道具に頼るしかない状況)
「魔道具、ですか」
「……ああ」
青年の表情に、諦めと僅かな希望が混在していた。
この青年は、妹の病気を治すために、フェンリス高地から徒歩で10日以上かけて王都までやってきた。
持参した薬草は、自分で調合したもの。商売目的ではなく、魔道具を購入するための、たった一つの財産。
そして、その病気は通常の薬草では治らない——おそらく、魔力に関連した症状。
俺は木箱をそっと閉じた。
「……申し訳ありません。これは、買い取れません」
「なぜだ」
青年の声に、初めて感情が滲んだ。困惑と、抑えきれない焦燥。
「成分が強すぎるんです。人間が使えば、逆に症状が悪化する可能性があります」
これは真実だった。獣人と人間では、薬草への耐性が根本的に異なる。丁寧に調合されているからこそ、種族の壁が問題になる。
「しかも……」俺は続けた。
「この調合法だと、魔力暴走を抑える効果は期待できません」
青年の耳が、ぴくりと動いた。
「なぜ、それを」
「ヤメミ草の配合比率です。通常の鎮静剤なら3:1で十分ですが、これは1:1。魔力による発熱を想定した配合です」
青年は息を呑んだ。完全に見抜かれている。
「……妹は、魔力の制御ができない。生まれつき、体内に溜まった魔力が暴走して、熱を出す」
「それで、薬草では限界があると」
「……ああ」
青年の肩が、小さく震えた。
「だから、王都まで。魔道具なら、何とかなるかもしれないと思って……」
その時、青年は箱をゆっくりと抱き直した。諦めの表情で、出入口へ向かおうとする。
「待ってください!」
思わず声が出ていた。
青年が振り返る。その瞳に、消えかけた希望の光がまだ残っていた。
「代金は、いりません。でも……これを、持っていってください」