第九章:見知らぬシルクのベッドと、危ない香りがする男
ふわり、と体にまとわりつく、滑らかなシーツの感触。
重いまぶたをこじ開けると、目に飛び込んできたのは、見慣れた自分の部屋の白い天井ではなかった。
高く、装飾の施された、明らかに高級そうな天井。
そして、部屋全体に満ちている、スパイシーで官能的な、覚えのない香り。
間違いない、これは男物の香りだ。そして、ここは男の部屋だ。
がばりと体を起こすと、ガン、と鈍い痛みが頭の奥で鳴った。昨夜のウイスキーが、まだ体内で暴れているらしい。
状況を整理しようと、必死で記憶の糸をたぐる。
バー『ザ・サイレント・マン』で、ラフロイグを飲んで、ハリーのことを思い出して……そこから先が、完全にブラックアウトしていた。
なぜ、私はここにいる?
辺りを見回すと、部屋はミニマルながらも、一つ一つの家具が恐ろしく高価そうなもので統一されていた。
モダンアートの絵画。キングサイズよりもさらに大きいベッド。まるで高級ホテルのスイートルームだ。
そして、最悪の事実に気づく。
私、服を着ていない。身につけているのは、下着だけだ。
血の気が、サーッと音を立てて引いていく。嘘でしょ。
私、知らない男の家で、下着姿で寝てる? 昨夜、意識を失った後、いったい何が……?
パニックで心臓が早鐘を打っていると、カチャリ、と部屋の奥にあるドアが開いた。
バスルームだ。そこから現れた人物を見て、私は呼吸を忘れた。
腰に白いタオルを一枚巻いただけの、半裸の男。
濡れてカールしたダークブラウンの髪。
憂いを帯びた、吸い込まれそうなほど深いグレーの瞳。
そして、彫刻家が丹精込めて作り上げたかのような、完璧に6つに割れた腹筋。
それは、まるで高級ブランドの広告からそのまま抜け出してきたような、人間離れした美しさだった。
歳は、30代後半くらいだろうか。
あまりの衝撃と、この世のものとは思えない美貌に、私は声も出せず、ただベッドの上で固まっていた。
男は、そんな私を値踏みするように一瞥すると、心地よい、しかし氷のように冷たい低い声で言った。
「君はいつもそんな飲み方をしているのか?」
その声には、優しさや心配の色など、微塵も含まれていなかった。ただ、純度100%の非難と呆れだけが、そこにあった。
「……っ、すみません……」
かろうじて絞り出した私の謝罪に、男は大きなため息で応えた。
その反応が、私の罪悪感をさらに抉る。
震える声で、一番聞きたくない、でも聞かなければならない質問を口にした。
「あの……私たちって、その……何か……?」
男は、心底呆れ果てた、という顔で私を見た。
「何も覚えていないのか」
その言葉は、肯定とも否定とも取れず、私の不安を煽る。彼は忌々しげに、タオルで髪を乱暴に拭きながら続けた。
「バーで死体のように突っ伏している君を、バーテンダーに頼まれて介抱してやろうとしたら、いきなり絡んできたのは君の方だ」
「え……?」
「挙句、私の服に吐き、大声で『家に連れてけー!』と罵倒し始めた。あまりに手がつけられないから、仕方なくここに連れて帰ってきた。それだけだ」
……吐いた? ……罵倒した?
信じられない。いや、信じたくない。
でも、彼の冷めきった瞳が、それが紛れもない事実だと物語っている。
「じゃあ、この下着は……」
「君のゲロまみれの服は、今、洗濯乾燥機の中だ。さすがに、ベッドまで汚されるのはごめんだったんでね」
ああ、神様。いっそ、体の関係があった方がマシだったかもしれない。
人として、女として、終わっている。
羞恥心で、今すぐこの場で蒸発してしまいたかった。顔から火が出る、とはまさにこのことだ。
男は、そんな私の羞恥心など意にも介さず、クローゼットを顎でしゃくった。
「とりあえず、そこのシャツでも着ておけ。服が乾くまでな」
そして、部屋のドアに向かいながら、吐き捨てるように言った。
「それから、リビングに来い。水を飲め。見るからに脱水症状だ」
そのどこまでも冷たい命令口調に、私は「はい」と答えることしかできなかった。
男が部屋から出ていくと、私は崩れるようにベッドに突っ伏した。
私は一体、何という失態を演じてしまったのだろう。
そして、あの恐ろしく美しくて、恐ろしく冷たい男は、一体、何者なの?