表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
The Girl in the Blue Dress  作者: Ginger
8/22

第八章:四年ぶりの亡霊と、鳴らせなかった非常ベル

 鎮痛剤がようやく脳の痛みに届き始めたのを感じながら、私は会社のビルを出た。

 ひんやりとした初夏の夜気が、まだ微熱を帯びた肌に心地いい。


  駅までの道を、いつもより少しゆっくりと歩く。

(今日も、よく頑張ったわ、私) 心の中で、自分自身を褒めてあげる。


 午前中は二日酔いの屍だった人間が、夕方には完璧なビジネスウーマンとして一日を終えたのだ。

 昨夜の狂乱と今日の完璧な仕事ぶり、そのあまりのギャップに、自分でも少し笑えてくる。

 やっぱり、私にはこれしかないのだ。このスリルと達成感が、何よりの……。


 その時だった。 反対側から歩いてくる男性が、こちらをじっと見ていることに気づいた。

 (知り合い…?いや、まさか) 人違いだろうと視線を外そうとした。

 

 けれど、できなかった。

 磁石のように、彼の視線に縫い付けられてしまった。

  だんだんと近づいてくるその顔。見間違えるはずがない。


 私の心臓が、ドクン、と大きく跳ねて、肋骨の裏側に張り付いた。ハリー。 嘘でしょ。なぜ、今、ここに。


  記憶の中の彼よりも、少しだけ目尻に皺が刻まれ、以前のやんちゃな輝きは、落ち着いた大人の深みに変わっていた。

 それが、悔しいくらいに彼の魅力を増やしていて、私の呼吸を浅くさせた。


 パニックで逃げ出したいのに、足はコンクリートに根を生やしたように動かない。

 ハリーは私の数メートル手前で立ち止まると、少し驚いたように目を見開き、そして、ふっと柔らかく微笑んだ。


「エマ? やっぱりエマだ。久しぶり」


 その声。忘れたくても忘れられなかった、低くて優しい声。

 私の脳内で、警報がけたたましく鳴り響く。

 (笑って! 自然に! いつものエマ・ウォーカーを演じるのよ!)長年かけて鍛え上げた鉄の仮面が、私の意思とは無関係に、完璧な笑顔を顔面に作り出した。


「ハリー。本当に久しぶり。元気だった?」


 まるで昨日、カフェで会ったかのような、軽やかな声が出た。自分でも信じられない。


「ああ、まあね。君も元気そうだ。その姿、相変わらずバリバリ働いてるんだろうなって感じがするよ」

 

 ハリーはそう言って、悪戯っぽく笑った。

 その左手の薬指には、プラチナの指輪が光っている。胸の奥が、針で刺されたようにチクリと痛んだ。


「ええ、おかげさまで。あなたも順調そうね。素敵なご家庭を築いているようで、何よりだわ」


 完璧なカウンターパンチ。我ながら、満点の回答だ。

 ハリーは一瞬、言葉に詰まったようだったが、すぐに


「ああ、ありがとう」と頷いた。

 気まずい沈黙が、一秒だけ流れる。


「じゃあ、私、約束があるから急ぐわね」


「ああ、そうか。引き留めて悪かった。じゃあ、またどこかで」


「ええ、また」


 私は最高の笑顔で手を振り、颯爽と彼に背を向けた。

 ハイヒールがアスファルトを叩く音だけが、やけに大きく聞こえる。

 一歩、また一歩。決して振り返らない。角を曲がるまで、絶対に。


 そして、ようやく次の通りの角を曲がり、ハリーの視界から完全に消えた瞬間、私は近くの建物の壁に手をついて、かろうじて立っているのがやっとだった。


 ぜえ、ぜえ、と息が切れる。まるで全力疾走した後のようだ。

(嘘でしょ、嘘でしょ、なんで今…!?)


 頭の中が、嵐のようにかき乱される。

(今日の私、変じゃなかった!? スーツの皺は? メイクは崩れてなかった? 髪は!?)

(息! 息はアルコール臭くなかったかしら!? 昨日のシャンパンとテキーラの残り香が、まだ肺の奥に潜んでいたんじゃないの!?)

(普通に、自然に振るまえていた? 泣きそうになってなかった? 声、震えてなかった…!?)


 パニックになった頭で、無意識にiPhoneを取り出していた。指が勝手に『The Fab Four』のチャット画面を開き、文字入力欄に吸い寄せられる。


『エマージェン』

 そこまで打って、指が止まった。

……さすがに、二日連続は、ないわよね。

  昨夜、あれだけ大騒ぎして、私のために集まってくれた親友たち。


 みんな、それぞれの生活と、それぞれの二日酔いと戦っているはずだ。

 これ以上、私の、それも四年も前に終わった男のことで、彼女たちの手を煩わせるわけにはいかない。


 これは、私が一人で乗り越えるべき問題だ。

 私はぎゅっとiPhoneを握りしめると、そのまま乱暴にバッグの中へとしまい込んだ。


 でも、このまま家に帰れるほど、私の心臓は強くない。

 感情の嵐を、一人でやり過ごせる場所が必要だった。


 駅へ向かっていた足を、くるりと返す。

 向かう先は、オフィスから数ブロック離れた場所にある、行きつけのバー『ザ・サイレント・マン』。

 

 騒がしいパブとは違う。重厚な木のドアの向こうには、静かなジャズと、低い話し声、そしてアルコールの香りだけが存在する、大人のための避難所。


 私は、そのドアに吸い込まれるように、足を踏み入れた。 今夜は、きっと眠れない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ