第八章:四年ぶりの亡霊と、鳴らせなかった非常ベル
鎮痛剤がようやく脳の痛みに届き始めたのを感じながら、私は会社のビルを出た。
ひんやりとした初夏の夜気が、まだ微熱を帯びた肌に心地いい。
駅までの道を、いつもより少しゆっくりと歩く。
(今日も、よく頑張ったわ、私) 心の中で、自分自身を褒めてあげる。
午前中は二日酔いの屍だった人間が、夕方には完璧なビジネスウーマンとして一日を終えたのだ。
昨夜の狂乱と今日の完璧な仕事ぶり、そのあまりのギャップに、自分でも少し笑えてくる。
やっぱり、私にはこれしかないのだ。このスリルと達成感が、何よりの……。
その時だった。 反対側から歩いてくる男性が、こちらをじっと見ていることに気づいた。
(知り合い…?いや、まさか) 人違いだろうと視線を外そうとした。
けれど、できなかった。
磁石のように、彼の視線に縫い付けられてしまった。
だんだんと近づいてくるその顔。見間違えるはずがない。
私の心臓が、ドクン、と大きく跳ねて、肋骨の裏側に張り付いた。ハリー。 嘘でしょ。なぜ、今、ここに。
記憶の中の彼よりも、少しだけ目尻に皺が刻まれ、以前のやんちゃな輝きは、落ち着いた大人の深みに変わっていた。
それが、悔しいくらいに彼の魅力を増やしていて、私の呼吸を浅くさせた。
パニックで逃げ出したいのに、足はコンクリートに根を生やしたように動かない。
ハリーは私の数メートル手前で立ち止まると、少し驚いたように目を見開き、そして、ふっと柔らかく微笑んだ。
「エマ? やっぱりエマだ。久しぶり」
その声。忘れたくても忘れられなかった、低くて優しい声。
私の脳内で、警報がけたたましく鳴り響く。
(笑って! 自然に! いつものエマ・ウォーカーを演じるのよ!)長年かけて鍛え上げた鉄の仮面が、私の意思とは無関係に、完璧な笑顔を顔面に作り出した。
「ハリー。本当に久しぶり。元気だった?」
まるで昨日、カフェで会ったかのような、軽やかな声が出た。自分でも信じられない。
「ああ、まあね。君も元気そうだ。その姿、相変わらずバリバリ働いてるんだろうなって感じがするよ」
ハリーはそう言って、悪戯っぽく笑った。
その左手の薬指には、プラチナの指輪が光っている。胸の奥が、針で刺されたようにチクリと痛んだ。
「ええ、おかげさまで。あなたも順調そうね。素敵なご家庭を築いているようで、何よりだわ」
完璧なカウンターパンチ。我ながら、満点の回答だ。
ハリーは一瞬、言葉に詰まったようだったが、すぐに
「ああ、ありがとう」と頷いた。
気まずい沈黙が、一秒だけ流れる。
「じゃあ、私、約束があるから急ぐわね」
「ああ、そうか。引き留めて悪かった。じゃあ、またどこかで」
「ええ、また」
私は最高の笑顔で手を振り、颯爽と彼に背を向けた。
ハイヒールがアスファルトを叩く音だけが、やけに大きく聞こえる。
一歩、また一歩。決して振り返らない。角を曲がるまで、絶対に。
そして、ようやく次の通りの角を曲がり、ハリーの視界から完全に消えた瞬間、私は近くの建物の壁に手をついて、かろうじて立っているのがやっとだった。
ぜえ、ぜえ、と息が切れる。まるで全力疾走した後のようだ。
(嘘でしょ、嘘でしょ、なんで今…!?)
頭の中が、嵐のようにかき乱される。
(今日の私、変じゃなかった!? スーツの皺は? メイクは崩れてなかった? 髪は!?)
(息! 息はアルコール臭くなかったかしら!? 昨日のシャンパンとテキーラの残り香が、まだ肺の奥に潜んでいたんじゃないの!?)
(普通に、自然に振るまえていた? 泣きそうになってなかった? 声、震えてなかった…!?)
パニックになった頭で、無意識にiPhoneを取り出していた。指が勝手に『The Fab Four』のチャット画面を開き、文字入力欄に吸い寄せられる。
『エマージェン』
そこまで打って、指が止まった。
……さすがに、二日連続は、ないわよね。
昨夜、あれだけ大騒ぎして、私のために集まってくれた親友たち。
みんな、それぞれの生活と、それぞれの二日酔いと戦っているはずだ。
これ以上、私の、それも四年も前に終わった男のことで、彼女たちの手を煩わせるわけにはいかない。
これは、私が一人で乗り越えるべき問題だ。
私はぎゅっとiPhoneを握りしめると、そのまま乱暴にバッグの中へとしまい込んだ。
でも、このまま家に帰れるほど、私の心臓は強くない。
感情の嵐を、一人でやり過ごせる場所が必要だった。
駅へ向かっていた足を、くるりと返す。
向かう先は、オフィスから数ブロック離れた場所にある、行きつけのバー『ザ・サイレント・マン』。
騒がしいパブとは違う。重厚な木のドアの向こうには、静かなジャズと、低い話し声、そしてアルコールの香りだけが存在する、大人のための避難所。
私は、そのドアに吸い込まれるように、足を踏み入れた。 今夜は、きっと眠れない。