第七章:午前八時の戦場と、祖母秘伝の最終兵器
ジリリリリ! というけたたましいアラーム音よりも先に、私の意識を叩き起こしたのは、頭蓋骨の内側から巨大なハンマーで殴られているような、壮絶な痛みだった。
「うっ……」
呻き声と共に目を開けると、見慣れた寝室の天井がぐるぐると回っている。
口の中はカラカラに乾ききって、まるで砂漠のようだ。
間違いない。これは、まごうことなき、人生最悪レベルの二日酔いだ。
のろのろと体を起こし、ベッドサイドテーブルに放り出してあったiPhoneを掴む。
画面には、夜中の狂乱の証拠がくっきりと残されていた。
『The Fab Four』のグループチャット。
クロエ: 『おはよう世界…。頭が爆発しそう…。もう二度とお酒は飲みません…(今日だけ)』
マヤ: 『誰か、私の昨夜の記憶、持ってない? シャンパン以降が完全にブラックアウトしてるんだけど。私、変な男に電話番号とか渡してないよね…?』
オリヴィア: 『添付ファイル:昨夜の請求書(画像)』
オリヴィア: 『追伸:今後、マヤに酒の注文をさせることを固く禁じます』
そのメッセージを見て、私は思わず吹き出してしまった。 そしてすぐに、笑った振動で頭に激痛が走り、顔をしかめる。
みんな、同じ地獄にいるらしい。それだけが、唯一の救いだった。
しかし、その小さな安堵は、画面の隅に表示された時刻によって、一瞬で粉砕された。
「8時15分!?」
嘘でしょ!? 役員会議は9時から。移動時間を考えれば、残された時間は、30分もない。
血の気が、サッと音を立てて引いていく。
昨日あれだけ部下のトムを叱責した上司が、二日酔いで遅刻なんて、絶対に許されない。
その瞬間、私の体は、まるで戦闘モードに切り替わったかのように動き出した。
まず向かうのはキッチンだ。冷蔵庫からトマトジュース、レモン、タバスコ、ウスターソース、そしてセロリソルトを取り出す。
これは、祖母が教えてくれた、ウォーカー家秘伝の二日酔い撃退ドリンク、「グランマズ・スペシャル・ブラッディ・メアリー(ノンアルコール版)」だ。
グラスに全てを叩き込み、一気にかき混ぜて、鼻をつまんで一気飲みする。
喉を焼くような強烈な刺激が、無理やり脳を覚醒させた。
次に、洗面所のボウルに氷を山のように入れ、そこに冷水を注ぐ。
そして、意を決して顔を突っ込むこと10秒。
心臓が止まるかと思うほどの冷たさが、全身の毛穴を叩き起こした。
よし。これで戦える。
そこからは、記憶がない。たぶん、普段の半分の時間でシャワーを浴び、完璧なメイクを施し、クローゼットから一番シャープに見えるアルマーニのネイビースーツを引っ張り出したはずだ。
髪をきっちりとしたシニヨンにまとめ、鏡に映る自分を見る。目の下にはうっすらと隈が残っているが、コンシーラーで完璧に隠蔽されている。
そこにいるのは、いつもの「鉄の女、エマ・ウォーカー」だった。
嵐のように家を飛び出し、Uberを捕まえる。
後部座席で揺られながら、iPhoneで今日のタスクとメールを鬼のようにチェックし、頭の中を仕事モードに強制アップデートしていく。
昨夜の記憶は曖昧だが、それでいい。過去は振り返らない。それが私の信条だ。
オフィスには、始業時間のきっかり5分前に滑り込んだ。私の姿を認めたジェシカが、
「おはようございます、エマさん。今日も完璧ですね」
と声をかけてくる。
私は優雅に微笑んでみせた。
「おはよう。あなたもね」と。
まさか私が、ほんの30分前までベッドの上で死体のように転がっていたなど、誰が想像できようか。
自分のデスクに着くと同時に、私は猛烈な勢いで働き始めた。
「トム、昨日の企画書、再々提出は11時までによろしく」
「ジェシカ、A社のハミルトン氏へのアポイント調整メール、下書きを10分で」
「役員会議の資料、最終版を全員に転送して!」
矢継ぎ早に指示を飛ばし、9時からの会議では、自分でも驚くほど理路整然としたプレゼンテーションをやってのけた。
むしろ、昨夜のアルコールによるデトックス効果なのか、頭が妙に冴えわたっている気さえする。
(よくこの頭で喋れたな、私…)なんて内なるツッコミを入れながらも、表情は一切崩さない。
電話、メール、ミーティング、企画書チェック。時間の感覚がなくなるほど仕事に没頭し、気づけば窓の外はオレンジ色に染まっていた。
山のようにあったタスクリストは、全て完了のチェックマークで埋め尽くされている。
部下たちが一人、また一人と帰っていく。
「お疲れ様でした」 その声に「お疲れ様」と返し、オフィスにはあっという間に私一人になった。
ふぅー、と今日初めて、体の芯から深い息を吐く。
鉄の仮面をそっと外し、素の自分に戻る瞬間だ。
グランマズ・スペシャルの効果も切れ始めたのか、ズキ、ズキ、と頭痛がぶり返してきた。
デスクの引き出しの奥から、鎮痛剤のシートを取り出す。
昨夜の狂乱が、まるで遠い夢のようだ。
でも、あの時間があったから、今日の私がいる。
あれは、明日からの戦いに挑むための、私にとっての最高の燃料補給だったのだ。
鎮痛剤を一錠、水で飲み干す。
窓の外に広がるロンドンの夜景を見ながら、私は小さく呟いた。 「我ながら、よくやったわ」
一人だけど、独りじゃない。
その確かな感覚を胸に、私は静かに立ち上がり、戦士の束の間の休息のため、自らの城へと帰る準備を始めた。