第六章:午前二時のシンデレラたちと、世界で一番効く薬
マヤが注文したシャンパンが、金色の泡を立てながらテーブルに運ばれてきた時、私の心のどこかに残っていた最後の理性の糸が、プツリと音を立てて切れた。
「私の輝かしい未来と、クソみたいな男どもの墓場に、乾杯!」
オリヴィアが高らかにグラスを掲げると、私たちは
「乾杯!」と叫んでグラスを打ち合わせた。
澄んだガラスの音と、弾ける泡。それが、私たちの長い夜の第二幕の始まりを告げるゴングだった。
一杯、二杯とシャンパンを空け、気づけばテキーラのショットが追加され、クロエが「可愛いから」という理由だけで頼んだピンク色のカクテルがテーブルに並ぶ頃には、私たちはすっかり泥酔していた。
「ていうかさー!」
一番最初に口火を切ったのは、普段は一番おしとやかなクロエだった。
彼女は頬を真っ赤に染め、テーブルに突っ伏しながら叫んだ。
「うちの編集長、マジでありえない! 私の企画見て『クロエのセンスは、ちょっとコンサバすぎるかなー』とか言うわけ! どの口が言うの!? あんたが着てるその肩パッド入りのジャケット、80年代の亡霊だって気づいてないの!?」
「わかるー!」
とマヤが身を乗り出す。
「男ってすぐセンスとか語るくせに、自分はヨレヨレのTシャツ着てたりするよね! うちのジムにもいるのよ、『マヤのトレーニングは、ちょっと追い込みが甘いんじゃない?』とか言ってくる細モヤシ野郎が! お前はまず、ベンチプレス10キロ上げてから言えっての!」
火のついた愚痴は、もう誰にも止められない。
これまで完璧なキャリアウーマンの仮面を被っていた私も、アルコールの力を借りて、心の奥底に溜め込んでいた毒を吐き出していた。
「そもそも、なんで女ばっかり『癒し』とか『包容力』とか求められなきゃいけないわけ!? こっちだって毎日戦ってんのよ! 癒されたいし、包み込まれたいわよ、ムキムキの胸板に!」
「それな!」
シティのクールビューティー、オリヴィアがグラスを叩きつけた。
彼女のきっちり分けていた前髪は、今や見る影もなく乱れている。
「この前デートした男なんて、私の給与明細をチラ見して『……僕より稼いでるでしょ?』だって! 最悪! プライドがエベレスト級に高くて、器はショットグラスより小さい男、今すぐ絶滅してほしい!」
仕事の愚痴から、男の愚痴へ。話題はとめどなく広がり、私たちは泣いたり、笑ったり、怒ったりを繰り返した。
クロエが年下彼氏の「かまってちゃん」ぶりにキレたかと思えば、次の瞬間には「でも寝顔は天使なの…」と泣き崩れ、マヤは「ワンナイトラブの相手に朝帰り際にプロポーズされた」という武勇伝(?)を語り、オリヴィアは「AIと結婚した方がマシ」という結論に達していた。
私も、ハリーの思い出から、トムへの怒り、CEOへのプレッシャーまで、洗いざらいぶちまけた。
誰にも言えなかった本音を叫ぶたびに、心の鎧が一枚、また一枚と剥がれていくような、不思議な解放感があった。
私たちは、ただひたすら共感し、互いの傷を舐め合った。周りの客がドン引きしている視線も、店員さんの「早く帰ってくれ」というオーラも、今の私たちには全く関係なかった。
ふと、誰かがスマホの画面を見て、悲鳴を上げた。
「ヤバい! もう午前2時!」
「うそ! 明日、9時から役員会議なのに!」
「終電、とっくの昔にないじゃん!」
魔法が解けたシンデレラのように、私たちはおとぎ話の世界から一気に現実へと引き戻された。
テーブルの上には、無数の空グラスと、食べ散らかされたおつまみの残骸。
伝票の合計金額を見て、オリヴィアが「これは必要経費よ」と呟いたのが、最後のハイライトだった。
千鳥足で店を出ると、ロンドンの深夜の冷たい空気が、火照った体に気持ちいい。私たちは互いを支え合いながら、大通りでタクシーを拾った。
「エマ、無理すんなよ!」
「クロエこそ、彼氏と仲良くな!」
「オリヴィア、AIとの婚活、報告してね!」
「マヤは変な男に捕まんじゃないわよ!」
それぞれのタクシーに乗り込み、窓から手を振り合う。
あっという間に、親友たちの乗った車は夜の闇に消えていった。
一人になったタクシーの中で、私は窓に額をつけた。
アルコールのせいか、疲労のせいか、それとも久しぶりに心から笑ったせいか、全身が心地よい脱力感に包まれていた。
部下たちの悪口も、昇進へのプレッシャーも、今はもう、どうでもいいくらい遠くに感じられた。
ポケットの中で、スマホが震える。『The Fab Four』のグループチャットが動いていた。
マヤ: 『今日はサイコーだった! 次は絶対、全員でイイ男ゲットする!』
クロエ: 『みんな大好き♡ 明日、二日酔いで死んでると思うけど…笑』
オリヴィア: 『請求書は後で送るわ。とりあえず、今日はありがとう』
私はそのやり取りを見て、自然と笑みがこぼれた。 鉄の鎧が、少しだけ軽くなった気がした。
これが、世界で一番効く薬。私だけの、エマージェンシーコール。
『こちらこそ。ありがとう』
そう返信を打ち、私は静かに目を閉じた。
タクシーは、私の小さな城へと向かって走っていく。
明日になれば、また重い鎧を身につけて、戦場へ向かうのだ。
でも、きっと大丈夫。今夜もらったこの温かさがあれば、私はまだ、戦える。