第五章:過去の亡霊と、最強の鎧が作られた日
「作戦名、『鉄の女、恋に落ちる』! まずは手始めに、今夜、このパブでイイ男をハントするわよ!」
マヤの号令一下、私たちはグラスを片手に、まるで諜報員のように店内を見回した。
ターゲットは、ミスター・ビッグ、あるいはマーク・ダーシー。最低でも、ヒュー・グラント似のチャーミングな男性。
「9時の方向、二人組。グレーのセーターの方、どう?」
クロエが小声で言う。
彼女の言う「どう?」は、だいたい「優しそう?」という意味だ。
「上腕二頭筋は合格。でも、履いてる靴が絶望的にダサい。却下」 肉体派のマヤが、即座に切り捨てる。
「そもそも、二人とも左手の薬指に指輪。時間の無駄よ」
オリヴィアがアナリストの目で冷静に指摘した。
「じゃあ、カウンター席の一番奥の人は? 一人で本を読んでるわ。インテリ系かも」
私も、少しだけゲームに乗る気になって提案してみる。
「ああ、彼ね。さっきから30分、同じページを読んでるわ。たぶん、文字が読めないのよ」
「ていうか、あの本、逆さまじゃない?」
「ダメだこりゃ」
現実は、どこまでいっても現実だった。店内にいるのは、フットボールの中継に熱狂するおじさんたちのグループ、スマホゲームに夢中な学生、そして、どう見てもこちらの世界に興味がなさそうなカップルばかり。
映画みたいに、ふと視線を上げた先に運命の人が座っている、なんて奇跡は起こるはずもなかった。
「……まあ、そんなもんよね」
私がため息交じりに言うと、三人も
「だよねー」
と肩をすくめた。
私たちは顔を見合わせ、先ほどマヤが注文したテキーラのショットグラスを、揃ってぐいっと呷った。喉が焼けるような感覚が、逆に心地いい。
「でもさ」
ふと、クロエが思い出したように言った。
「エマが『エマージェンシー』を使ったのって、本当に久しぶり。あの時以来じゃない?」
その言葉に、オリヴィアとマヤの動きが止まる。
私も、心臓がどきりと音を立てたのがわかった。
あの時。
私たちの間では、それだけで通じる。
忘れたくても忘れられない、エマ・ウォーカー史上、最大最悪の事件。そう、あれは四年前。ハリーと別れた、あの夜のことだ。
ハリー。その名前を口にするだけで、今でも胸の奥が甘く、そして鋭く痛む。
ハリーは、私のすべてだった。
三つ年上の証券マンで、身長は185センチ。
ジムで鍛えられたしなやかな筋肉と、太陽の光を浴びて輝く金髪。優しくて、知的で、野心的で。
私のキャリアにも理解を示してくれる、まさに完璧な恋人。私は本気で、彼が私の「運命の相手」だと信じて疑わなかった。
でもある日、彼は言ったのだ。
「エマは強すぎる。僕がいなくても、一人で完璧に生きていけるじゃないか」と。
そんなことはない、あなたが必要だと泣いて縋る私を、彼は困ったように見つめるだけだった。
そして、その半年後。
共通の友人から、彼の結婚を知らされた。相手は、エマより四つも年下の、オフィスビルの受付嬢。
SNSで見つけた彼女の写真は、どこからどう見ても、私とは真逆のタイプだった。ふわふわのロングヘアに、上目遣いの大きな瞳。プロフィール欄には「お菓子作りとネイルが趣味です♡」なんて書いてある。
オリヴィアは彼女を
「脳みそまでマシュマロでできてそうな女」と呼び、
マヤは
「典型的な清純派ビッチ」と吐き捨てた。
クロエでさえ、
「……きっと、すごく家事が得意な子なのよ」
と、必死に言葉を選んでいた。
頭が悪そうで、か弱そうで、男の庇護欲をこれでもかと掻き立てる女。
私にないもの、すべてを持っていた。
あの夜、私は生まれて初めて「エマージェンシー」を発動した。今日と同じように駆けつけてくれた三人の前で、私は子供のように泣きじゃくった。
「仕事で成功したって意味がない。強い女なんて、誰も愛してくれないんだ。」と。
あの日を境に、私は変わった。
恋に破れた痛みを忘れるように、仕事に没頭した。
泣いている暇があったら、企画書を一つでも多く書いた。感傷に浸る時間があったら、スキルアップのための勉強をした。
「強さ」で私を振った男を、圧倒的な成功で見返してやる。
そうやって、私は自分の心を守るために、世界で一番強固な「鉄の女」の鎧を作り上げたのだ。
「……だから、心配なのよ」
オリヴィアが、珍しく弱々しい声で言った。
「あんたがまた、あの時みたいに傷つくのが。部下の悪口くらいで、あの鎧が壊れちゃうくらい、あんたの心が疲れてるんじゃないかって」
オリヴィアの言葉に、私は何も言い返せなかった。
図星だったからだ。昇進を前に浮かれて、一瞬、鎧を脱ぎかけてしまった。その隙間に、部下たちの言葉が深く突き刺さったのだ。
「終わった男の話は、もうおしまい!」
感傷的な空気を断ち切るように、マヤがパン!と手を叩いた。
「いい、エマ? ハリーみたいな見る目のない男のせいで、あんたが恋を諦めるなんて、百万年早いのよ! 世の中にはもっといい男がいるってこと、私たちが証明してやるから!」
マヤはそう言うと、バーカウンターに向かって高々と手を上げた。
「お兄さん! この店で一番高いシャンパン、持ってきて! 今夜は、エマの新しい門出を祝うわよ!」
え、シャンパン? 私の抗議の声は、クロエとオリヴィアの「「いいね!」」という歓声にかき消された。
どうやら今夜は、ジントニックとポテトチップスだけでは終わらないらしい。
私のエマージェンシーは、本格的にパーティーへと姿を変えようとしていた。