第四章:駆けつけ三杯と、世界で一番の味方たち
ダブルのジントニックは、空っぽの胃にアルコールランプの火を灯すように、カッと染み渡った。
そして、3週間ぶりに口にしたポテトチップスの塩気は、涙で濡れた心に驚くほどよく効いた。
なんて罪深い味がするんだろう。
この背徳感こそ、今の私には必要だった。もう一杯、同じものを頼もうか。
そう思った、まさにその時だった。
「エマ!」
パブのドアが勢いよく開き、息を切らしたクロエが駆け込んできた。
ふわりとしたパステルカラーのワンピースに、少し困ったように垂れた大きな瞳。
年下の犬系彼氏の影響か、彼女自身も日に日に守ってあげたくなる小動物のような可愛らしさを増している。
「大丈夫!? あんたが『エマージェンシー』なんて使うから、地球の地軸がずれたのかと思った!」
私の隣に滑り込むと、クロエは本気で心配そうな顔で私の両手を握りしめた。
その温かさに、また涙腺が緩みそうになる。
続いて、カツ、カツ、と小気味良いヒールの音を立てて現れたのはオリヴィアだ。
シャープな黒のパンツスーツに、きっちりと分けた黒髪。
シティの金融アナリストである彼女は、いつだって冷静で、合理的。
私の涙の跡と、目の前のジントニック、そしてポテトチップスの空き袋を一瞥すると、事態を瞬時に把握したようだった。
「なるほど。状況は理解したわ。原因は仕事ね。で、具体的に何があったの? 5W1Hで説明して」
そして最後に、まるで嵐のように現れたのがマヤだ。
体にぴったりとフィットしたアスレジャースタイルで、引き締まった褐色の肌が眩しい。
彼女は私の向かいの席にドカッと腰を下ろすと、近くを通りかかった店員の腕を掴んだ。
「お兄さん、とりあえずピント(ビール大ジョッキ)でエールを2つ! それとテキーラショット4つ! 話はそれから!」
ジムのインストラクターである彼女は、いつだってエネルギッシュで、考えるより先に体が動く。
狙った獲物は逃さない、が口癖の彼女にとって、悲しみに暮れる親友を救うミッションは、最高に燃えるトレーニングみたいなものなのだろう。
クロエの優しさ、オリヴィアの冷静さ、マヤのバイタリティ。中学時代から変わらない、私の世界で一番信頼できる三人が、今、目の前にいる。
それだけで、心の鎧がガラガラと崩れ落ちていくのを感じた。
「あのね……」
私は堰を切ったように、今日あった出来事を全て話した。
CEOに褒められて、ディレクターへの昇進をほのめかされて、有頂天になったこと。
これでいいんだ、私には仕事しかないんだって、鉄の鎧をさらに分厚く着込んだこと。
そして、その直後に聞いた、部下たちの残酷なまでに的確な悪口。
「……ロボット、だって。鉄の女だから、彼氏なんてできるわけないって……。
わかってるの。自分でもそう言ったくらいだから。でも……っ」
言葉が詰まり、俯くと、
クロエが「もういいよ、言わなくて」と背中をさすってくれた。
「ひっどい! 信じられない! エマがどれだけ努力してるか、本当は誰よりも優しいか、何も知らないくせに! あんたはロボットなんかじゃない!」
感情を爆発させるクロエの隣で、オリヴィアは腕を組んで冷静に分析していた。
「まあ、部下の噂話なんてそんなものよ。気にするだけ時間の無駄。むしろ、それを言わせるくらいの『ブランド』を確立したってことじゃない? 重要なのは昇進の話よ。感情と事実は切り離して考えなさい、エマ」
「はぁ? オリヴィア、あんたは冷たいんだよ!」
とクロエが噛みつく。
その横で、マヤがドン!とテーブルを叩いた。ちょうど運ばれてきたビールが、派手に泡を立てる。
「ムカつく! そいつら全員、名前と顔、覚えてる? 今度、私のブートキャンプの体験レッスンに招待してやる。 二度と他人の悪口なんて言えないくらい、地獄の果てまで追い込んでやるから!」
テキーラのショットグラスをぐいっと煽ると、
マヤは「で、そいつらの中に、イケメンはいるの?」
とちゃっかり付け加えることも忘れなかった。
三者三様の慰めが、バラバラのようでいて、不思議と私の心には的確に効いた。
クロエの共感が傷を癒し、オリヴィアの現実的な視点が冷静さを取り戻させ、マヤの怒りが私の代わりに鬱憤を晴らしてくれる。
「ありがとう、みんな……。来てくれて、本当に嬉しい」
鼻をすすりながら言うと、オリヴィアがふっと息を吐いた。
「当たり前でしょ。私たちは『The Fab Four』なんだから。あんたが月イチのランチ会で、本当は『ブリジット・ジョーンズの日記』のマーク・ダーシーみたいな不器用なイケメンに巡り会いたいって、目をハートにしながら語ってるの、私たちは知ってるのよ」
「そうそう!」
とマヤが身を乗り出す。
「仕事ではターミネーター演じてるくせに、本当は誰よりもロマンチストなシンデレラだってこと、全部お見通しなんだから!」
「やめてよ、恥ずかしい……」
顔を覆う私に、クロエが
「でも、本当に辛かったね」
と優しく微笑む。
そうだ。彼女たちは知っている。
鉄の女の鎧の下に隠された、不器用で、夢見がちで、本当は愛されたいと願っている、ただの「エマ」の姿を。
涙はいつの間にか乾いていた。
目の前には、最高の親友たちと、これから始まる長い夜。
運ばれてきたテキーラのショットグラスが、キラキラと光っている。
オリヴィアが、私のグラスを持ち上げた。
「よし。じゃあ、まずはそのクソな部下たちと、あんたの輝かしい昇進に乾杯。そして、ここからは作戦会議と行きましょうか」
マヤがニヤリと笑う。
「いいわね! 作戦名、『鉄の女、恋に落ちる』! まずは手始めに、今夜、このパブでイイ男をハントするわよ!」
「ええ!?」
と素っ頓狂な声を上げる私をよそに、クロエまで
「いいかも! エマの新しい魅力を引き出そう!」
と目を輝かせている。
私のエマージェンシーは、どうやらとんでもない方向へと舵を切り始めたようだった。