第三章:聞きたくなかった本音と、最後のセーフティネット
すっかりネオンが瞬く時間になったロンドンの街を、私は一人、駅へと向かっていた。
CEO室での高揚感は、夜の冷たい空気に晒されて少しずつ落ち着きを取り戻し、代わりに心地よい疲労感が全身を包んでいた。
そう、これでいい。これが私の人生。恋愛ドラマなんて、しょせんフィクション。
現実の私は、この街で自分の足で立ち、自分の力で未来を切り拓くのだ。
「ディレクター、エマ・ウォーカー。悪くない響きじゃない。」
そんなことを呟きながら、ショーディッチの裏通りを抜けてリバプール・ストリート駅へ向かう近道を歩いていた時だった。
ガヤガヤとした陽気な喧騒が、通りの角にあるパブ
『レッド・ライオン』から漏れ聞こえてきた。
ガラス張りの向こうに見える人影は、やけに既視感があるわ。と思わず足を止めた。
「だからさー、トムは悪くないって! あれは誰だって凹むよ!」
「そうそう! 乾杯しようぜ、今日の生還を祝して!」
聞き間違えるはずもない。ジェシカの声だ。そして、それに続くのは、私のチームのメンバーたちの声。
昼間、子犬のように震えていたトムも、今はビールジョッキを片手に苦笑いを浮かべているのが見えた。
みんなで飲んでいたんだ。私抜きで。
まあ、当然か。私を誘う人なんていない。わかっている。
わかっているけれど、胸の奥がチクリと痛んだ。踵を返そうとした、その瞬間だった。
「にしても、今日のウォーカーさん、いつもに増してヤバくなかった?」
「わかる! CEOに呼び出された後だから、機嫌最悪だったんだろうな」
「あの人、本当に血が通ってんのかな? 完璧すぎるっていうか、なんかもう……ロボットみたいじゃない?」
「アハハ、確かに! ターミネーターかよ!」
「マジで、彼氏とかいるのかな? あの人のプライベートって誰も知らないよな」
やめて。 聞きたくない。
「いるわけないだろ、あんな鉄の女に! 仕事が恋人なんだよ、きっと」
トムがそう言ったのを、私は確かに聞いた。
それは、私が自分自身に言い聞かせ、ブランドとして築き上げてきた言葉のはずだった。
なのに、他人の口から、それも今日一日私が徹底的にしごき上げた部下の口から放たれたその言葉は、鋭いガラスの破片のように私の胸に突き刺さった。
孤高な女。それは自覚している。
むしろ、そうあるべきだと思っていた。
でも、どうしてだろう。頭ではわかっているのに、心が言うことを聞かない。
視界が急速に滲んでいく。まずい、こんなところで泣くなんて。エマ・ウォーカーらしくない。
堪えようとすればするほど、熱い塊が喉の奥からせり上がってくる。
私は慌てて彼らに背を向け、足早にその場を離れた。
街灯の光が、涙でぐにゃりと歪む。完璧なメイクが、マスカラの黒い筋となって頬を伝っていくのがわかった。
みっともない。情けない。こんな姿、誰にも見せられない。
路地の暗がりに身を隠し、壁に手をついて、私はようやく嗚咽を漏らした。
ダイヤモンドの女になるんじゃなかったの?
なのに、今の私は、ただの傷ついた、孤独な女だ。
震える手で、ディオールのバッグからiPhoneを取り出す。
連絡先リストをスクロールする気力もない。
指が覚えているアイコンをタップして、WhatsAppの、あるグループチャットを開いた。
『The Fab Four』
中学時代からの、腐れ縁。私、クロエ、オリヴィア、マヤ。四六時中連絡を取り合うわけじゃない。お互い忙しいし、住んでいる場所も少し離れている。
でも、ここは私たちの最後のセーフティネット。本当にダメになった時だけ、開くことを許された場所。
私は、たった一言だけ打ち込んだ。
『エマージェンシー』
送信ボタンを押すと同時に、既読が「3」になる。
ほとんど、1秒もかからなかった。
クロエ: 『どうしたの!? あんたがこれ使うなんて、地球が滅びる前触れ?』
オリヴィア: 『場所は? すぐ行く』
マヤ: 『仕事? 男? とりあえずジントニック用意しとく?』
立て続けに届くメッセージに、また涙が溢れた。
私のことを「鉄の女」でも「ロボット」でもなく、
ただの「エマ」として見てくれる人たちが、まだこの世界にいた。
『会社の近く。今から別のパブに移動する』
そう返すと、
オリヴィアから『OK、30分で合流。そこで待ってて』
と頼もしい返信が来た。
私は深呼吸をして、涙を乱暴に手の甲で拭った。
よし。30分。それまでには、この崩壊した顔面と心を、少しでも立て直さなければ。
『レッド・ライオン』から数ブロック離れた、少し落ち着いた雰囲気のパブ『ザ・フェニックス』のドアを開ける。
奥のテーブル席に一人で座り、メニューも見ずにバーテンダーに告げた。
「ジントニックを、ダブルで。それと、ポテトチップスを一袋」
プロテインバー生活に、今夜、別れを告げる。
今はただ、親友たちが来るのを待つことだけが、私ができる唯一のことだった。