第二章:昇進の甘い毒と、孤独なハイヒール
「はい、ウォーカーです」
ディスプレイに表示された名は、我が社のCEO、ミスター・ハミルトン。
背筋が凍る、という表現は、こういう瞬間のためにあるのだと知る。
私の心臓は、勝手にサンバのリズムを刻み始めた。まずい。何かやらかした?
トムを厳しく叱責しすぎたことが、パワハラとして報告された?
それとも、先日のコンペで僅差で負けたあの案件か。思考がぐるぐると渦を巻く。
「エマ、今すぐ私のオフィスに来てくれ」
用件も言わず、一方的に切れた電話。
これは、最悪のパターンだ。
私はすっくと立ち上がり、ジャケットの皺を一つ伸ばす。
周囲の同僚たちが、息を殺して私を見ているのがわかった。憐れみ、好奇、そしてほんの少しの恐怖。
彼らの視線が、無数の針のように背中に突き刺さる。大丈夫。私はエマ・ウォーカー。鉄の女よ。
どんな嵐だって、このハイヒールで乗り越えてみせる。
最上階にあるCEO室までの道のりは、まるで断頭台へ続く廊下のようだった。
磨き上げられたマホガニーの重厚なドアを、意を決して3回ノックする。
「入れ」
中から聞こえた低い声に、私はすっと息を吸い込み、完璧な笑顔を顔に貼り付けた。
「お呼びでしょうか、ミスター・ハミルトン」
白髪をオールバックにしたミスター・ハミルトンは、ロンドンの街並みを一望できる巨大な窓を背に、革張りの椅子に深く腰掛けていた。
彼は私を一瞥すると、デスクの上にある一本のチョコバーを指さした。
出た。あれだ。 『ヘルシー・バイツ』。
健康志向を謳いながら、その味は「湿った段ボール」「鳥のエサ」「チョコレート風味の泥」とネットで酷評の嵐。
社内の誰もがサジを投げた、地獄のような案件だった。
押し付けられた私が、血のにじむような努力でリブランディング戦略を練り直し、先月からようやく新しいキャンペーンが始まったばかりだ。
まさか、もうクレームが殺到したとか?
「ウォーカー、君がこの『ヘルシー・バイツ』のキャンペーンを担当しているな」
「はい。私が責任者です」
どんな叱責も受け入れよう。そう覚悟して、背筋を伸ばした。
ところが、ハミルトンは厳しい顔をふっと緩め、口の端を上げた。
「今朝、クライアントから連絡があった。先月の売り上げ、前年比で400%だそうだ」
「……よんひゃく?」
予想外の数字に、私の口から素っ頓狂な声が漏れた。慌てて口元を引き締める。
「君の『まずい。だから、効く。』という、あの自虐的なキャッチコピーが、ターゲット層に爆発的にウケたらしい。SNSでは『#まずいけど許す』というハッシュタグまで生まれている。正直、私はどうかしてると思ったが…見事だ、ウォーカー。君の勝利だ」
え? 勝利? 私の頭の中で、トムを叱りつけた声が反響する。「感覚で仕事をするな!」と。
でも、あのキャッチコピーこそ、徹夜続きで朦朧とした頭がひねり出した、ほとんど「感覚」の産物じゃなかったっけ……。
いや、違う。
あれは緻密な競合分析と、逆張り戦略というロジックに基づいたものだ。そう、絶対にそうだ。
「ありがとうございます。全て計算通りです」
私はポーカーフェイスを貫いて、優雅に微笑んでみせた。
ハミルトンは満足そうに頷き、引き出しから一枚の書類を取り出した。
「実はな、来月からマーケティング部門のディレクターが一人、産休に入る。後任を探しているんだ」
「……!」
「君のように、誰もが嫌がる仕事から最高の結果を生み出す人間が、今の『アトラス』には必要なんだ。わかるな?」
彼はそれ以上言わなかったが、意味は痛いほどわかった。ディレクターへの、昇進。
今のポジションから、さらに一つ上へのステップ。
それは、私がこの会社に入ってからずっと、喉から手が出るほど欲しかったものだ。
心の奥で、昨日観たラブコメ映画のワンシーンが再生されそうになるのを、私は力ずくで押さえつけた。
運命の恋? ミスター・ビッグ? 馬鹿馬鹿しい。
そんな不確かなものより、自分の力で掴み取れる成功の方が、どれだけ確実で、甘美なことか。
「鉄の女」、大いに結構。むしろ、もっと硬い
「ダイヤモンドの女」にでもなってやる。
「ご期待に沿えるよう、全力を尽くします」
そう言って完璧な角度でお辞儀をし、私はCEO室を後にした。廊下を歩く私の足取りは、来た時とは比べ物にならないほど力強く、軽い。
ジミーチュウのヒールが、カツ、カツ、と勝利のファンファーレを奏でているようだった。
オフィスに戻ると、空気はまだ凍り付いたままだ。
私がデスクに座ると、隣のチームのジェシカが恐る恐る話しかけてきた。
「エマ、大丈夫だった…?」
「ええ。問題ないわ」 私はにっこり笑って、すぐに仕事用の厳しい顔に戻る。
「それよりトム、例の件はどうなったの? もう1時間半よ」
私の声に、トムの肩がビクッと跳ねた。彼は震える手で、新しい企画書を差し出す。
私はそれに素早く目を通し、赤ペンを走らせた。
「データはいいわ。でも、訴求ポイントが弱い。この商品のベネフィットは、単なる『健康』じゃない。『罪悪感なく食べられる快感』よ。ターゲットはストイックな自分に酔いたい層なの。もっと、そこをえぐるような言葉はないの?探しなさい。今のあなたなら、見つけられるはずよ」
私の言葉は、以前よりもっと鋭く、けれどほんの少しだけ、奇妙な熱を帯びていた。
それは「期待」という名の、最もタチの悪いプレッシャーだ。
トムは一瞬、何か言いたそうな顔をしたが、すぐに
「はい」と頷き、自分のデスクへ戻っていった。
それから退勤時間まで、私は猛烈な勢いで働き続けた。
鳴りやまない電話に対応し、数十件のメールを処理し、3つの企画書を修正し、部下たちの進捗を15分おきにチェックした。
誰も私に話しかけない。ただ、私の指示だけがオフィスに響き渡る。それでいい。これが心地いい。
気づけば、窓の外はすっかり暗くなり、オフィスには私一人になっていた。
達成感と共に、どっと疲れが押し寄せる。静寂が耳に痛い。 ふと、デスクの上のスマホが目に入った。友達からのメッセージは一件もない。マッチングアプリの通知が一件だけ光っているけれど、開く気にもなれなかった。
(私のミスター・ビッグは、市場占有率……)
昼間の自分のセリフを思い出し、自嘲気味に笑う。 でも、今はそれでいい。ディレクターの椅子が、すぐそこにあるのだから。
私はコートを羽織り、ハイブランドのバッグを肩にかけ、オフィスのドアに鍵をかける。
カチャリ、という金属音が、私の心を閉じ込める音のように聞こえた。
ロンドンの冷たい夜風が、火照った頬に心地いい。
ショーウィンドウに映る自分の姿は、我ながら完璧なキャリアウーマンだ。
でも、その完璧な姿が、どうしようもなく一人ぼっちに見えたのは、きっと気のせいだ。
私はそう信じて、夜の街を力強く歩き始めた。私の戦場は、ここなのだから。