表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
The Girl in the Blue Dress  作者: Ginger
2/22

第二章:昇進の甘い毒と、孤独なハイヒール

「はい、ウォーカーです」


ディスプレイに表示された名は、我が社のCEO、ミスター・ハミルトン。

 背筋が凍る、という表現は、こういう瞬間のためにあるのだと知る。


 私の心臓は、勝手にサンバのリズムを刻み始めた。まずい。何かやらかした?

 トムを厳しく叱責しすぎたことが、パワハラとして報告された?

それとも、先日のコンペで僅差で負けたあの案件か。思考がぐるぐると渦を巻く。


「エマ、今すぐ私のオフィスに来てくれ」


用件も言わず、一方的に切れた電話。

これは、最悪のパターンだ。


 私はすっくと立ち上がり、ジャケットの皺を一つ伸ばす。

周囲の同僚たちが、息を殺して私を見ているのがわかった。憐れみ、好奇、そしてほんの少しの恐怖。


 彼らの視線が、無数の針のように背中に突き刺さる。大丈夫。私はエマ・ウォーカー。鉄の女よ。

どんな嵐だって、このハイヒールで乗り越えてみせる。

最上階にあるCEO室までの道のりは、まるで断頭台へ続く廊下のようだった。

磨き上げられたマホガニーの重厚なドアを、意を決して3回ノックする。


「入れ」


中から聞こえた低い声に、私はすっと息を吸い込み、完璧な笑顔を顔に貼り付けた。


「お呼びでしょうか、ミスター・ハミルトン」

白髪をオールバックにしたミスター・ハミルトンは、ロンドンの街並みを一望できる巨大な窓を背に、革張りの椅子に深く腰掛けていた。


 彼は私を一瞥すると、デスクの上にある一本のチョコバーを指さした。

出た。あれだ。 『ヘルシー・バイツ』。


健康志向を謳いながら、その味は「湿った段ボール」「鳥のエサ」「チョコレート風味の泥」とネットで酷評の嵐。


 社内の誰もがサジを投げた、地獄のような案件だった。

押し付けられた私が、血のにじむような努力でリブランディング戦略を練り直し、先月からようやく新しいキャンペーンが始まったばかりだ。

 まさか、もうクレームが殺到したとか?


「ウォーカー、君がこの『ヘルシー・バイツ』のキャンペーンを担当しているな」


「はい。私が責任者です」


どんな叱責も受け入れよう。そう覚悟して、背筋を伸ばした。

ところが、ハミルトンは厳しい顔をふっと緩め、口の端を上げた。


「今朝、クライアントから連絡があった。先月の売り上げ、前年比で400%だそうだ」


「……よんひゃく?」


 予想外の数字に、私の口から素っ頓狂な声が漏れた。慌てて口元を引き締める。


「君の『まずい。だから、効く。』という、あの自虐的なキャッチコピーが、ターゲット層に爆発的にウケたらしい。SNSでは『#まずいけど許す』というハッシュタグまで生まれている。正直、私はどうかしてると思ったが…見事だ、ウォーカー。君の勝利だ」


 え? 勝利? 私の頭の中で、トムを叱りつけた声が反響する。「感覚で仕事をするな!」と。

でも、あのキャッチコピーこそ、徹夜続きで朦朧とした頭がひねり出した、ほとんど「感覚」の産物じゃなかったっけ……。

 いや、違う。

あれは緻密な競合分析と、逆張り戦略というロジックに基づいたものだ。そう、絶対にそうだ。


「ありがとうございます。全て計算通りです」


 私はポーカーフェイスを貫いて、優雅に微笑んでみせた。


ハミルトンは満足そうに頷き、引き出しから一枚の書類を取り出した。


「実はな、来月からマーケティング部門のディレクターが一人、産休に入る。後任を探しているんだ」


「……!」


「君のように、誰もが嫌がる仕事から最高の結果を生み出す人間が、今の『アトラス』には必要なんだ。わかるな?」


 彼はそれ以上言わなかったが、意味は痛いほどわかった。ディレクターへの、昇進。

今のポジションから、さらに一つ上へのステップ。

それは、私がこの会社に入ってからずっと、喉から手が出るほど欲しかったものだ。


心の奥で、昨日観たラブコメ映画のワンシーンが再生されそうになるのを、私は力ずくで押さえつけた。

 運命の恋? ミスター・ビッグ? 馬鹿馬鹿しい。

そんな不確かなものより、自分の力で掴み取れる成功の方が、どれだけ確実で、甘美なことか。


 「鉄の女」、大いに結構。むしろ、もっと硬い

「ダイヤモンドの女」にでもなってやる。


「ご期待に沿えるよう、全力を尽くします」


 そう言って完璧な角度でお辞儀をし、私はCEO室を後にした。廊下を歩く私の足取りは、来た時とは比べ物にならないほど力強く、軽い。

 ジミーチュウのヒールが、カツ、カツ、と勝利のファンファーレを奏でているようだった。


オフィスに戻ると、空気はまだ凍り付いたままだ。

私がデスクに座ると、隣のチームのジェシカが恐る恐る話しかけてきた。


「エマ、大丈夫だった…?」


「ええ。問題ないわ」 私はにっこり笑って、すぐに仕事用の厳しい顔に戻る。


「それよりトム、例の件はどうなったの? もう1時間半よ」


 私の声に、トムの肩がビクッと跳ねた。彼は震える手で、新しい企画書を差し出す。

 私はそれに素早く目を通し、赤ペンを走らせた。


「データはいいわ。でも、訴求ポイントが弱い。この商品のベネフィットは、単なる『健康』じゃない。『罪悪感なく食べられる快感』よ。ターゲットはストイックな自分に酔いたい層なの。もっと、そこをえぐるような言葉はないの?探しなさい。今のあなたなら、見つけられるはずよ」


 私の言葉は、以前よりもっと鋭く、けれどほんの少しだけ、奇妙な熱を帯びていた。

 それは「期待」という名の、最もタチの悪いプレッシャーだ。


トムは一瞬、何か言いたそうな顔をしたが、すぐに

「はい」と頷き、自分のデスクへ戻っていった。


 それから退勤時間まで、私は猛烈な勢いで働き続けた。

鳴りやまない電話に対応し、数十件のメールを処理し、3つの企画書を修正し、部下たちの進捗を15分おきにチェックした。

 誰も私に話しかけない。ただ、私の指示だけがオフィスに響き渡る。それでいい。これが心地いい。


 気づけば、窓の外はすっかり暗くなり、オフィスには私一人になっていた。


 達成感と共に、どっと疲れが押し寄せる。静寂が耳に痛い。 ふと、デスクの上のスマホが目に入った。友達からのメッセージは一件もない。マッチングアプリの通知が一件だけ光っているけれど、開く気にもなれなかった。


(私のミスター・ビッグは、市場占有率マーケットシェア……)

 昼間の自分のセリフを思い出し、自嘲気味に笑う。 でも、今はそれでいい。ディレクターの椅子が、すぐそこにあるのだから。


 私はコートを羽織り、ハイブランドのバッグを肩にかけ、オフィスのドアに鍵をかける。

 カチャリ、という金属音が、私の心を閉じ込める音のように聞こえた。


 ロンドンの冷たい夜風が、火照った頬に心地いい。

ショーウィンドウに映る自分の姿は、我ながら完璧なキャリアウーマンだ。

 でも、その完璧な姿が、どうしようもなく一人ぼっちに見えたのは、きっと気のせいだ。

私はそう信じて、夜の街を力強く歩き始めた。私の戦場は、ここなのだから。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ