第十八章:決戦のプレゼンテーションと、ありえない祝杯の誘い
決戦の月曜日。
数時間の仮眠から目覚めた私は、シャワーで無理やり意識を覚醒させると、この日のために用意しておいた、新品のネイビーのスーツに身を包んだ。
鏡の中の私は、目の下に濃い隈が刻まれているが、その瞳は異様なほど爛々と輝いている。
まるで、これから戦場に向かう兵士だ。
「勝つわ」
鏡の中の自分に、短く、強く、そう言い聞かせた。
オフィスでは、チーム全員が、まるで判決を待つ被告人のような顔で私を待っていた。
彼らの顔にも、この一週間の過酷さを物語る疲労が色濃く浮かんでいる。
私は彼らに一度だけ力強く頷くと、完成したプレゼン資料のデータが入ったUSBスティックを、お守りのように握りしめて、『オリオン・キャピタル』へと向かった。
フィリップの会社の、ガラス張りの巨大な会議室。
そこには、先週と同じように、フィリップと、彼の腹心らしき数人の男女が、冷たい表情で待ち構えていた。部屋の空気が、氷のように冷たい。
私は、その視線を全身で受け止めながら、静かに壇上に立った。心臓が、肋骨を突き破るのではないかというほど激しく高鳴っている。
でも、大丈夫。
私は、この地獄の一週間を生き抜いたのだ。
完璧な「鉄の女」の仮面を被り、私はプレゼンテーションを開始した。
私の声は、驚くほど落ち着いて、淀みなく会議室に響き渡った。
ロジカルなデータ分析、大胆なクリエイティブ戦略、そして、このプロジェクトにかける情熱。
一週間分の、私たちの全てを、言葉に乗せて叩きつける。
フィリップは、終始無表情だった。
腕を組み、鋭いグレーの瞳で、ただじっと私を見つめている。
時折、核心を突く鋭い質問が飛んでくるが、それも全て想定内だ。
私は、用意していた完璧な答えで、一つ一つ、冷静に切り返していく。
長い、長いプレゼンテーションが終わり、会議室に完全な静寂が訪れた。
誰も、何も言わない。息を呑むような、心臓が凍り付くような緊張感。
フィリップは、私の目を数秒間見つめた後、手元の資料に視線を落とした。
そして、ページを一枚めくり、短く、一言だけ、言った。
「悪くない。その方向性で進めてくれ」
たった、それだけ。
しかし、その言葉は、私にとって、世界中のどんな賛辞よりも価値のある、完全な勝利宣言だった。
オフィスに戻った私は、会議室にチーム全員を集めた。
みんな、私の顔から結果を読み取ろうと、固唾を飲んで私を見つめている。
私は、初めて、彼らの前で鉄の仮面を少しだけ緩め、穏やかな表情を作ってみせた。
「プレゼンは、通ったわ。来週から、このプランで本格的に始動することが決まった」
その瞬間、会議室に「うおおお!」という、地鳴りのような歓声が沸き起こった。
抱き合って喜ぶ者、ガッツポーズをする者。
私は、その光景を、胸に込み上げてくる熱い何かを感じながら、見つめていた。
「この一週間、本当によく頑張ってくれたわ」
私は、一人一人の顔を見ながら、続けた。
「トム、あなたのデータ分析がなければ、このロジTジックは成り立たなかった。ジェシカ、あなたのリサーチが、私たちの方向性を確かなものにしてくれたわ。デザイナーチームも、寝ずに最高のビジュアルを仕上げてくれた。みんな、本当にありがとう。あなたたちは、最高のチームよ」
普段の私からは、絶対に考えられない、ストレートな感謝の言葉。
部下たちは、驚きに目を丸くし、そして、じわりと感動に顔を綻ばせた。
トムに至っては、大きな瞳から、ぽろぽろと涙をこぼしている。
極度の緊張と、それを乗り越えた達成感。
そして、アドレナリンがぷつりと切れた反動で、私は、自分でも信じられないような言葉を口走っていた。
一種の、ランナーズハイだったのかもしれない。
「……ねえ。もし、みんなさえよければだけど……今夜、飲みに行かない?」
シン、とオフィスが静まり返った。
全員が、
「え? あの、鬼のエマさんが、私たちを、飲みに?」と、宇宙人でも見るような目で、私を見ている。私自身も、「しまった!」と思ったが、一度口から出た言葉は、もう取り消せない。
その気まずい沈黙を破ったのは、ジェシカだった。
「行きます! ぜひ、行かせてください!」
彼女の声を皮切りに、トムも、他のメンバーも、
「行きます!」
「僕も!」
と、次々に声を上げた。
私は少し戸惑いながらも、自然と笑みがこぼれていた。
「そう。じゃあ、決まりね」
そして、最高のサプライズを付け加えた。
「ああ、それと。明日と明後日は、全員、振替休日よ。ゆっくり休んでちょうだい。これは、CEOから正式な許可も取ってあるから」
「よっしゃー!」
今度こそ、オフィスは本当のお祭り騒ぎになった。
私は、部下たちの心からの嬉しそうな笑顔を見て、これまで感じたことのない、じんわりと温かい気持ちに包まれていた。 鉄の女が、初めてチームと心を通わせた瞬間だったのかもしれない。
「じゃあ、仕事はこれで終わり! お店の予約、誰か得意な人いる?」
私が少し楽しそうに言うと、トムが
「僕、探します!」
と、涙で濡れた顔のまま、元気よく手を挙げた。
地獄の一週間は終わり、今夜は、ありえないはずの祝杯を挙げるのだ。