第十六章:鉄の仮面と、地獄の始まりを告げる大見得
頭が真っ白になる、とはこのことだ。
目の前が、一瞬、本当に白く点滅した。
しかし、絶望の淵から私を引きずり上げたのは、長年この厳しい広告業界で生き抜くために鍛え上げてきた、プロフェッショナルとしての本能だった。
ここで崩れたら、終わりだ。
私は、心の奥底にいるパニック状態のエマを力ずくで押さえつけ、完璧な「鉄の女」の仮面を顔面に装着した。
呼吸を整え、一歩前に進み出る。
「初めまして、エマ・ウォーカーと申します」
声が、震えなかった。奇跡だ。
私は、練習してきた中で最も完璧なビジネススマイルを浮かべ、フィリップ・スターリングに向かって、スッと名刺を差し出した。
「この度は、このような大きなプロジェクトの責任者にご指名いただき、大変光栄に存じます。スターリング様。何卒、よろしくお願い申し上げます」
フィリップは、私の名刺を指先で受け取ると、値踏みするように一瞥し、それから私の顔を見た。
彼のポーカーフェイスは完璧で、何を考えているのか全く読めない。
「よろしく」
ただ、それだけを短く言うと、彼は私の名刺をテーブルの上に置いた。
私の堂々とした態度に、CEOや役員たちは満足そうに頷いている。
誰も、私たちの間に流れる、見えない火花には気づいていない。
会議が終わり、プロジェクトの概要説明が一段落した時だった。
ハミルトンCEOが
「では、具体的なプランについては、追って担当のウォーカーから…」と、その場を締めくくろうとした。その言葉を、フィリップが静かに遮った。
「いえ、ハミルトンさん」 彼の低い声が、会議室に響く。 「細かい話は、今ここで、彼女と直接詰めさせていただきたい」
その言葉は、私への指名だった。CEOたちは、
「おお、それは素晴らしい!」と二つ返事で承諾し、
「では、我々はこれで失礼するよ。ウォーカー君、スターリング様を、よろしく頼んだぞ!」
と、意気揚々と会議室から退出していった。
バタン、と重いドアが閉まる。 逃げ場のない、二人だけの空間。静寂が、耳に痛い。
フィリップは、ソファに深く座り直すと、組んでいた足を組み替えた。
ビジネスの話を切り出すかと思いきや、彼はふと、全く関係のないようなことを、穏やかな口調で呟いた。
「ウォーカーさん。お酒は、お強い方ですか?」
その一言で、私の背筋に氷の矢が突き刺さった。
間違いない。彼は、あの夜のことを、一瞬たりとも忘れていない。
そして、私にも忘れさせる気など、毛頭ないのだ。これは、彼の、静かで、残酷な宣戦布告だった。
一瞬、血の気が引いたが、ここで怯んではいけない。私は、挑戦的に彼の視線を受け止めた。
「お気遣い、痛み入ります。スターリング様。ですが、私のプライベートな体調管理は、このプロジェクトの成功とは何ら関係のないことと存じます」
そして、一息に続けた。
「私たちはプロフェッショナルですわ。このテーブルの上に持ち込むべきは、個人的な感情ではなく、ビジネスにおける最高の結果だけかと存じます」
これは、私の精一杯の虚勢であり、反撃だった。
「私情を挟むな」という、無言の牽制。
私のその強気な態度に、フィリップは初めて、面白がるように、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「ほう。プロフェッショナル、か。結構だ」
彼は挑発するように、私に問いかけた。
「では、その素晴らしい腕前、見せてもらおうか。いつまでに、君の言う『最高の結果』に繋がる初期提案を、私に提示できる?」
ここで引けば、完全に彼のペースに飲み込まれる。
このプロジェクトの主導権を、初日から彼に明け渡すことになる。 屈辱、怒り、そして恐怖。
それらが入り混じった感情が、私の理性を吹き飛ばした。
「一週間後ですわ」
気づけば、私の口から、とんでもない言葉が飛び出していた。
「来週の月曜、この時間に、必ずやご満足いただけるプレゼンテーションを、ご用意いたします」
通常なら、最低でも三週間は必要な作業だ。
オリエンテーションを受け、チームを編成し、リサーチと分析を重ね、クリエイティブなアイディアを練り上げる。
それを、たったの一週間で。
フィリップは、私のその無謀な答えに、満足そうに頷いた。
「楽しみにしているよ、ウォーカーさん」
その言葉を残し、彼は静かに立ち上がると、一人、会議室を出ていった。
一人残された会議室で、私はその場に崩れ落ちそうになるのを、必死でテーブルに手をついて堪えた。
「一週間……」
自分で自分の首を絞めたのだ。
これは、もう単なる仕事ではない。
あの屈辱的な夜を乗り越え、プロとして彼に認めさせるための、私のプライドを賭けた、たった一人の戦争だ。
地獄のような一週間が、今、幕を開けた。 私は会議室を飛び出すと、自分のチームが待つフロアに向かって、声を張り上げた。
「緊急ミーティング! 全員、5分後に第一会議室に集合して!」
戦いのゴングは、もう鳴ってしまったのだから。