第十五章:平穏な月曜日と、会議室にいた悪魔
週末の嵐が嘘のように、月曜日は驚くほど穏やかに始まった。
二日酔いの頭痛も、胸を抉るような心の痛みもない。
スッキリと目覚めた私は、クローゼットから新しく買ったばかりの、シャープなラインの黒いパンツスーツを選び出した。
それに袖を通し、鏡の前に立つと、そこにはいつもの自信に満ちた「エマ・ウォーカー」がいた。
よし、完璧だ。
オフィスも、いつも通りの日常が流れていた。
部下たちは相変わらず私の一挙手一投足に怯えているし、コピー機はご機嫌斜めだし、トムが提出してきた企画書は相変わらずツッコミどころ満載だ。
でも、それでいい。それがいい。
(やっぱり、こうでなくっちゃ。平穏が一番だわ)
先週末の出来事が、まるで遠い国の出来事のように感じられる。
私は心から安堵し、仕事のスイッチを入れた。
午前中は会議、資料作成、クライアントへの電話で、あっという間に過ぎていく。
ランチはデスクでサラダを頬張りながら、午後のタスクリストを整理する。
すべてが、私のコントロール下にある。完璧な、理想的な一日。
そう、思っていた。午後の内線電話が鳴るまでは。
「ウォーカー君」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、CEO、ミスター・ハミルトンの声だった。
「至急、第一会議室に来てくれたまえ。クライアントとの、非常に重要なミーティングだ」
「第一会議室、でございますか?」
私は手元のスケジュール帳を確認する。
今日、そんな最重要クライアントとのアポイントは、入っていなかったはずだ。
「ああ。急な話で申し訳ないが、先方のご都合でね。とにかく、すぐに来てくれ」
有無を言わさぬ口調で、電話は切れた。
突然の呼び出しに、胸が少しざわつく。
でも、相手はCEOだ。逆らえるはずもない。
私は背筋を伸ばし、完璧な「鉄の女」の仮面をしっかりと装着すると、ノートパソコンを片手に第一会議室へと向かった。
一体、どんなクライアントなのだろう。
私の頭の中では、いくつかの大手企業の名前がリストアップされていた。
大丈夫。どんな相手だろうと、私なら完璧に対応できる。
第一会議室の重いドアを、コンコン、と軽くノックして開ける。
「失礼いたします。ウォーカーです」
中には、CEOのハミルトン氏と、数人の役員がすでに着席していた。
そして、その向かい側。
我が社の最重要クライアントが座るはずの席にいる人物を見て、私は、文字通り、全身の血が凍り付くのを感じた。
ダークブラウンのカールヘア。
吸い込まれそうなほど深い、グレーの瞳。
高級なチャコールグレーのオーダースーツに身を包み、私が自室で見たオフの姿とは全く違う、冷徹で近寄りがたいビジネスマンのオーラを放っている、あの男。
フィリップ・スターリング。
彼が、なぜ、ここに? 私が声も出せずに立ち尽くしていると、ハミルトンCEOが満面の笑みで立ち上がり、私を手招きした。
「おお、ウォーカー君、来たか。紹介しよう。こちらが、我が社の新規最重要クライアント、『オリオン・キャピタル』CEOの、フィリップ・スターリング様だ」
頭の中で、何かが崩壊する音がした。
ハミルトン氏は、得意げにフィリップの方を向いて続ける。
「スターリング様、彼女が、今回のプロジェクトの責任者を務めさせていただくことになりました、我が社で最も優秀な主任、エマ・ウォーカーです」
その紹介を受けて、フィリップが、ゆっくりと私に視線を向けた。
「……どうも」
低い、温度のない声。
そのグレーの瞳には、何の感情も浮かんでいない。
いや、違う。
ほんの一瞬、ほんの僅かだけ。彼の瞳の奥に、冷たい、冷たい嘲笑のような光が宿ったのを、私は確かに見てしまった。
彼は、覚えている。 あの夜のことを、全部。
ゲロを吐きかけ、罵倒し、醜態を晒した相手。
もう二度と会うことはない、住む世界が違うと自分に言い聞かせた男。
その男が今、私のキャリアを、私の人生を左右する、最重要クライアントとして、目の前に座っている。
「来週こそは平穏に」 私のささやかな願いは、神様によって、史上最悪の皮肉なジョークとして、粉々に打ち砕かれた。
頭が真っ白になり、立っているのがやっとだった。
これから始まるのは、仕事ではない。地獄だ。