第十一章:ハロッズの買い物袋と、ピンク色の本音
フィリップのマンションの重厚なドアが無慈悲に閉まった後、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて、我に返って周りを見回し、自分が今いる場所が、ケンジントンかチェルシーか、そのあたりの、とにかく現実離れした高級マンション街の一角であることに気づいた。
(私には、一生縁のない世界だわ)
私は自嘲気味に息を吐くと、この場違いな場所から一刻も早く脱出すべく、ハイヒールの音を響かせながら最寄りの地下鉄駅へと早足で向かった。
電車に乗り込み、ごった返す人混みの中に紛れ、ようやく私は自分の日常に引き戻された気がした。
これが、私の現実。フィリップの静謐なマンションとは、あまりにもかけ離れていた。
ああ、もう最低。昨夜からの出来事を思い出すだけで、頭がおかしくなりそうだ。
ぼんやりとした頭でiPhoneを取り出し、スケジュールアプリを開く。
すると、明日の日付のところに、ポップなフォントで入力された予定が目に入った。
『The Fab Four - Monthly Lunch!』
そうだ。明日は、クロエ、オリヴィア、マヤとの月一恒例のランチ会の日じゃないか。
こんなボロボロの精神状態で、みんなに会える? 何より、こんな気分は今すぐ吹き飛ばしてしまいたい。
そうだ、買い物をしよう。
脳内に、天啓のようにその言葉が閃いた。
傷ついた心を癒し、失った自信を取り戻すための、一番手っ手り早くて効果的な方法。
それは、クレジットカードが悲鳴を上げるほどの「散財」だ。
最高の自分で、明日のランチ会に臨むのよ。
そう決意した私は、行き先を自宅からナイツブリッジへと変更した。目指すは、私の聖地、ハロッズだ。
荘厳な建物のドアをくぐると、花の香りと高級な香水、そして世界中から集まった人々の活気が、私を包み込んだ。
さあ、セラピーの始まりよ。
まずは、いつものように新しい「戦闘服」を求めてファッションフロアへ。
シャープなラインのジャケットや、体の線を拾わない知的なシフトドレスを物色する。
これが私。これが「エマ・ウォーカー」だ。
そう自分に言い聞かせているのに、ふと、視界の隅に入ったコーナーに、心がざわついた。
そこは、繊細なレースや柔らかなシフォンを使った、フェミニンなデザインで人気の『Self-Portrait』のコーナーだった。
パステルブルーの、軽やかなレースのワンピース。 普段の私なら、絶対に手に取らない。
可愛すぎる。スキがありすぎて見える。
でも……。
昨夜のフィリップの、私を厄介者としか見なさない、氷のような瞳が脳裏をよぎる。
「鉄の女」の鎧なんて、何の役にも立たなかったじゃないか。(……もう、いいんじゃないの?)
心の奥から、小さな、でも確かな声が聞こえた。
私は何かに導かれるように、そのワンピースを手に取ると、吸い込まれるように試着室へと向かった。
鏡に映った自分を見て、息をのむ。
いつもの、鎧を着たような私じゃない。シャープさの代わりに、柔らかさがそこにあった。
レースの繊細な生地が、心なしか私の表情まで優しく見せている。悪くない。むしろ……すごく、いいかもしれない。
「これも、いただくわ」
気づけば、私の口からそんな言葉が滑り落ちていた。
勢いづいた私は、コスメフロアへと向かった。
いつもなら、シャネルのカウンターで迷わずビジネスシーンに映える真っ赤なリップ「パイレーツ」を手に取るところだ。
でも、今日は違った。
私の足は、華やかなピンク色がずらりと並ぶ、イヴ・サンローランのカウンターへと向かっていた。
「何かお探しですか?」
美しいBAに微笑まれ、私は思わず口走っていた。
「……一番人気の、ピンクのリップをください」
BAさんが勧めてくれたのは、顔色がパッと華やぐような、幸せそうなコーラルピンクだった。
唇に乗せてもらうと、鏡の中の自分が、いつもよりずっと優しく、親しみやすく見えることに驚いた。
鉄の仮面が、一枚、はがれ落ちたような感覚。
「素敵です! お客様のブルーの瞳に、とてもお似合いですよ」
その言葉に後押しされ、私は迷わずそれを購入した。
仕上げは、フードホールでの自分へのご褒美。
最高級のシャンパンとチョコレート。
両手に抱えきれないほどのショッピングバッグの中には、いつもの「戦闘服」ではなく、本当は大好きだった、可愛らしいワンピースとピンクのリップが収まっている。
来月のクレジットカードの支払いは、きっと恐ろしいことになっているだろう。
でも、今は考えない。
デパートを一歩出ると、ロンドンの夕暮れが私を迎えた。
「さあ、これで準備は万端」
私は誰に言うでもなく、力強くそう呟いた。
両腕にずっしりと重い買い物袋。その中身の、ちぐはぐな取り合わせに、自分でも少し笑ってしまう。
でも、不思議と心は晴れやかだった。
「明日のランチ、何を着ていこうかしら」
久しぶりに、仕事以外の基準で自分の服を選ぶ楽しみを、私は思い出していた。