第十章:高級マンションのリビングと、氷の男の名前
どれくらいベッドの上で死んだふりを続けていただろうか。
数分かもしれないし、数十分かもしれない。
しかし、このまま化石になるわけにはいかない。
私は意を決してベッドから降り立つと、震える足で、彼が顎でしゃくったクローゼ-ットへと向かった。
ウォークインクローゼットの扉を開けて、息をのむ。
そこには、まるで高級セレクトショップのように、アルマーニ、トム・フォード、サンローランといったブランドのスーツやシャツが、完璧な間隔で並べられていた。
私はその中から、一番当たり障りのなさそうな、上質なコットン生地の白いシャツを一枚、そっと抜き取った。
彼のシャツを羽織ると、ふわりと、再びあの男性の香りがした。
さっきまで男性的で攻撃的に感じられた香りが、今はなぜか、この絶望的な状況における唯一の命綱のように思えて、心臓が皮肉な音を立てて跳ねた。
シャツの裾は太ももの半分ほどまであり、まるで短いシャツワンピースのようになった。
この格好で、あの氷の男の前に出なければならないのか。羞恥心で足がすくむ。
深呼吸を一つ。大丈夫。私はエマ・ウォーカー。
もっと最悪なプレゼンの場だって、乗り切ってきたじゃないか。 そう自分に言い聞かせ、私はおそるおそるリビングへと続くドアを開けた。
リビングは、私の想像をさらに上回る空間だった。
床から天井まで続く一面のガラス窓の向こうには、テムズ川と、きらめくタワーブリッジの姿が一望できる。
このロケーション、この眺望。
この部屋の主が、ただの金持ちではない、とんでもないレベルの成功者であることを物語っていた。
部屋の主は、すでに黒いスラックスを履き、濡れた髪を無造作にかき上げながら、大きな革張りのソファに腰掛けていた。
その姿は、オフタイムですら、雑誌のグラビアのようだ。 テーブルの上には、冷たい水滴をつけたグラスが一つ、ぽつんと置かれている。私のためのものだろう。
彼の鋭いグレーの瞳が、シャツ姿の私を一瞥する。
何か言われるかと身構えたが、彼は何も言わなかった。
その沈黙が、どんな罵倒よりも私の心を締め付けた。
私は彼の前に進み出ると、ビジネスマンもかくやというほど、深く、深く頭を下げた。
「昨夜は、本当に、本当に申し訳ありませんでした。ご迷惑をおかけしました。私、エマ・ウォーカーと申します。このご恩は、必ず……」
「礼などいらない」
私の言葉を、彼は冷たく遮った。
「迷惑だっただけだ」
その言葉に、胸が抉られるようだった。
返す言葉が見つからず、唇を噛む。
それでも、このまま引き下がるわけにはいかない。
「失礼ですが、あなたのお名前を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
男は一瞬、面倒くさそうに眉をひそめたが、やがて諦めたように口を開いた。
「フィリップだ」
「フィリップ……」
私はその名前を、忘れないように心の中で反芻した。
「あの、私が汚してしまったお洋服ですが、クリーニング代をお支払いさせてください。どんな高級ブランドでも、弁償いたします」
必死に申し出ると、フィリップは鼻で笑った。
「もう捨てた。気にするな」
「そんな…!でしたら、せめて何かお詫びをさせていただけませんか」
「結構だ」
彼はきっぱりと言い放った。
「君に望むのは、ただ一つ。服が乾き次第、速やかにここから出ていくこと。それだけだ」
彼の態度は、最初から最後まで一貫していた。
私は、彼のテリトリーに迷い込んだ、汚くて厄介なだけの闖入者なのだ。
その事実が、恥ずかしく悔しくて、涙が出そうになるのを必死でこらえた。
気まずい沈黙の中、テーブルの上の水を一口飲む。
乾ききった喉に、命の水が染み渡っていくようだった。
その時だった。
部屋の奥の方から、軽やかな電子音が聞こえた。
ピロリ♪、と。洗濯乾燥機が、その役目を終えたことを告げる合図だ。
まるで救いの鐘のように、その音は私を安堵させた。
フィリップも同じだったらしい。彼はすっと立ち上がると、
「乾いたようだ。着替えて、さっさと帰ってくれ」
と言って、私をランドリールームへと無言で案内した。
ありがたいことに、私の服は完璧に洗濯され、まだ温かい、ふわふわの状態で仕上がっていた。
ゲロまみれだったことなど嘘のようだ。私は急いで彼のシャツを脱ぎ、自分の服に着替えた。
リビングに戻ると、フィリップはすでに玄関のドアを開け、私が出ていくのを待っていた。
その姿は、まるで高級ホテルのドアマンのようだったが、その表情には一片のホスピタリティも感じられない。
玄関に立ち、私は最後にもう一度、彼に向かって頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。そして、心から、お詫び申し上げます。申し訳ありませんでした」
フィリップは何も答えず、ただドアを開けたまま、早く出ていけという無言の圧力をかけてくる。
私は逃げるように、マンションの静かな廊下へと一歩踏み出した。
その瞬間、私の背後で、重厚なドアがバタン、と無慈悲な音を立てて閉まった。
閉ざされたドアの前に、一人、立ち尽くす。
もう二度と、あの美しい氷の男、フィリップに会うことはないだろう。(会いたくはないが)
そして、この人生最大級の屈辱的な一夜の記憶は、誰にも語ることなく、墓場まで持っていこう。
私は固く、固くそう誓うと、呆然としたまま、その場を去るしかなかった。