第一章:鉄の女の鎧と、シンデレラのガラスの靴
「で、その根拠は?
なぜ、このキャッチコピーが20代女性の心に響くと断言できるの? あなたの感想じゃなくて、ロジックで説明してちょうだい、トム」
私の声が、やけに静まり返った会議室に響き渡る。
目の前には、子犬のように肩をすくめた新人のトム。
彼のブルネットの髪は、きっとお母さんが毎朝セットしてあげているに違いないわ。そんな甘っちょろいヘアスタイルで、この厳しい広告業界を生き抜けるとでも思っているのかしら。
「ええと、それは…その…感覚的に、イケてるかなと…」
「感覚? 感覚でクライアントから数百万ポンドの契約が取れるなら、今頃ロンドンの広告代理店は潰れて、タロット占い師の館にでもなってるわね」
ピシャリと言い放つと、トムはさらに小さくなった。
周りを取り囲むチームのメンバーたちも、固唾を飲んで私たちのやり取りを見守っている。
誰も助け舟を出さない。出せるはずがない。
だって、このチームの絶対的な支配者は、私、エマ・ウォーカーなのだから。
「いい、トム。私たちが売っているのは『イケてる感覚』じゃない。『結果』よ。マーケットデータ、過去の成功事例、ターゲット層のインサイト。それら全てを積み重ねて、初めて『結果』に繋がる仮説が立てられるの。
あなたのそのA4用紙1枚の『感覚』とやらは、今すぐシュレッダーにかけて。そして、今から2時間で、私が納得できるだけのロジカルな提案書を作り直してきなさい。いいわね?」
「は、はい!」
蚊の鳴くような声で返事をすると、トムは青い顔で資料をひっつかみ、嵐のように会議室から逃げ出していった。ふう、と一つため息をつき、私は残されたメンバーに向き直る。
「はい、じゃあ次の議題にいきましょう。A社のサマーキャンペーンについて。ジェシカ、進捗を」
……と、まあ、こんな感じ。
これが、会社での私。エマ・ウォーカー、31歳。
ロンドン中心部にある広告代理店『アトラス・クリエイティブ』で、チームリーダーという肩書をぶら下げて働いている。ブルネットの髪をきっちり夜会巻きにして、ディオールのジャケットの襟を立て、ジミーチュウのピンヒールでオフィスを闊歩する、いわゆる「バリキャリ」ってやつ。
社内での私の評判は、だいたいこんな感じに集約される。「鉄の女」「孤高のエリート」「男勝りのワーカホリック」。
誰も私がランチに何を食べているかなんて興味はないし(実際はデスクでプロテインバーをかじっているだけだけど)、週末の過ごし方なんて聞かれたこともない。それでいい。それが、私がこの会社で築き上げてきた「エマ・ウォーカー」というブランドなのだから。
でも、本当の私は……。
神様、お願い。もしこの告白を聞いているなら、少しだけ弁解させてほしい。
本当は、違うの。
確かに、仕事は好きよ。自分のロジックで巨大なキャンペーンを動かして、それが成功した時の快感は、何物にも代えがたい。でも、心の奥の奥の、誰にも見せたことのない柔らかい場所では、全く別のことを叫んでいる。
(心揺さぶられるような、とんでもない恋愛がしたい!)
そう。バカみたいでしょ? 31にもなって。
でも、私の本棚とNetflixの「マイリスト」を見れば、きっと誰もが納得するはずだ。そこには、『セックス・アンド・ザ・シティ』の全シーズンDVDBOXが鎮座し、『プラダを着た悪魔』はセリフを全部覚えるくらい観た。『エミリー、パリへ行く』のファッションにうっとりし、『キューティ・ブロンド』のエル・ウッズがハーバードで大逆転するシーンでは、今でもガッツポーズをしてしまう。
彼女たちみたいになりたいの。 仕事で大成功を収めながらも、息をのむようなロマンスに落ちて、親友とブランチをしながら恋の悩みを打ち明ける。
アンディがファッション業界で自分の居場所を見つけたように、私も何かを掴みたいし、キャリー・ブラッドショーがミスター・ビッグと結ばれたように、私の運命の人も、ロンドンのどこかで私を待っているはず……!
なのに、現実はどう? 私が履いているのは、シンデレラのガラスの靴じゃなくて、戦闘用のジミーチュウ。
掴んでいるのは、素敵な彼の腕じゃなくて、来期の予算案がびっしり書き込まれたiPad。
そして、週末のブランチの相手は、もっぱらCNNのニュースキャスターだけ。
同僚たちは、私が仕事と結婚した女だと思っている。スキがなさすぎて、口説く気にもなれないらしい。
前に一度、会社の飲み会で勇気ある男性が
「エマさんって、彼氏いるんですか?」
と聞いてきたことがある。私はなんて答えたと思う?
「私の恋人は、市場占有率よ」
最悪。本当に最悪。あとでウォッカを呷りながら、トイレの鏡に映る自分をどれだけ罵ったことか。
なぜ「今はフリーなの。あなたみたいな素敵な人がいたらいいんだけどな」くらいの気の利いたことが言えないの、私!
それに、この体型もコンプレックス。
誰もが「エマはスタイルがいい」「スキニーが似合う」
なんて言うけれど、冗談じゃない。
それは、私が朝食をスムージーで済ませ、週4でジムに通い、ランチはプロテインバーで我慢している努力の賜物であって、生まれつきじゃない。
本当は、夜中にポテトチップスを抱えて、恋愛映画を観ながら泣きたい時だってある。
もう少し、女性らしい丸みのある身体だったら……なんて、叶わぬ夢を見たりもする。
でも、そんな弱音は誰にも吐けない。 「鉄の女、エマ・ウォーカー」の鎧は、あまりにも重くて、硬くて、脱ぎ方を忘れてしまったみたい。
会議室の大きな窓から、午後の光を浴びてきらめくロンドンの街並みを見下ろす。
テムズ川が銀色のリボンのように輝き、ロンドン・アイがゆっくりと回っている。
この広い街のどこかに、私のミスター・ビッグはいるはず。ドラマみたいにカフェで偶然ぶつかったり、雨の日に同じタクシーに乗り合わせたりする、運命の出会いが待っているはずなの。
その時、静寂を破って、デスクの内線電話がけたたましく鳴り響いた。 ハッと我に返り、受話器を取る。
「はい、ウォーカーです」
ディスプレイに表示された名は、我が社のCEO、ミスター・ハミルトン。背筋が凍るような、緊張が走る。
私のドラマは、どうやらロマンスよりも先に、サスペンスが始まりそうな予感がした。