第1話:「※その夜、魔法は灯る」
【前夜祭当日・午前】
国語の授業が終わりかけた頃、教科書を閉じた先生が教壇で口を開いた。
「午後からは学校祭に向けての最終調整。そして前夜祭。
そこから三日間の文化祭と、最後に後夜祭。
この日のために、みんな頑張ってきたと思う。……くれぐれも、ケガやトラブルがないように」
言い終えた瞬間、校内に昼のチャイムが鳴り響く。
その音を境に、生徒たちの空気がふっと変わった。
(――始まった)
この瞬間から、正式な「停戦合意」の効力が発動される。
“地位協定”のもとにあるこの学校では、
運動会や文化祭など、教師が注視する行事にあたって、
建前としての“平等”と“共生”が求められる。
つまり今だけは、オタクもイケメンも、男子も女子も、
全員が“仲良し”を演じなきゃいけない。
与えられたアオハルを、笑顔で消化する三日間の始まりだ。
そんなことを考えている間に、俺――野中 蓮は弁当を広げた。
午後の最終調整に備えるつもりで、ただ黙々と食べた。
(……さて、やるか)
午後になり、オタ組の俺たちが向かわされたのは、体育館。
クラス演劇「ハムレット」のセットと照明の最終調整だった。
だが、本来渡されるはずだった脚本資料は、なぜか最後の最後まで欠けたままだった。
――いや、最初から“渡すつもりすらなかった”。
俺たちが使っていたのは、
以前、イケメン側の生徒から秘密裏に渡された資料のPDF。
それをグループチャットで共有し、演劇班の裏側だけで、ひっそり準備を続けてきた。
ようやく完成にこぎつけた小道具と舞台設計を見て、
クラスの誰もが一瞬、動揺した。
“なぜ、オタク側がここまでできてる?”
それもそのはず。
本来この作業は、わざと失敗させて“救済”する流れだったのだ。
「使えない奴ら」だと仕立てあげて、成果を“イケメン”が奪うという構図。
でも、それは実現しなかった。
密かに渡された情報を、俺たちは信じた。
見えない敵に気づかれないよう、黙々と準備をした。
完成してしまった今、噂が立ちはじめていた。
“裏切り者がいる”――
“誰かが、オタク側に資料を漏らした”――
けれど、その名前が表に出ることはなかった。
誰が渡したのか、なぜ渡したのか。
空気だけが、微かにざわついていた。
それでも俺たちは、振り返らずに進んだ。
この日だけは、“俺たちの文化祭”を創ると、そう決めていたから。
【前夜祭・夕方(蓮視点)】
中庭に提灯が灯りはじめる。
まるで舞台装置のように、学校が“非日常”へと染まっていく。
スピーカーから流れるアナウンス。
「本日、前夜祭を開催いたします。
みなさん、怪我や事故には十分注意して楽しんでください!」
照明器材の調整をしながら、
俺たちオタ組の三人は、いつものように体育館裏にいた。
「裏方もアオハルっちゃアオハルだよ」
誰かが言った。
誰も笑わなかった。
たぶん、みんな“本当のこと”を知っていたから。
それでも、俺はふと、提灯の影から誰かが手を振っているのに気づいた。
――西村 美鈴。
(俺に……?)
驚きつつ、指さして確認すると、美鈴はこくんと頷いた。
「ちょっと、お願いしたいことがあって」
「……俺でいいの?」
「うん。"停戦中"だし、ね」
さらりと笑って、美鈴はレストランと化した教室に俺を案内した。
それは、ほんのささいな作業の手伝い。
でも、"この三日間で“最初に交わされた、嘘のないやりとり”だった。
途中、演劇班帰りの涼子が通りかかった。
「……明日、やばいかも」
そう呟いて、すぐに去っていった。
あの背中に宿る“覚悟”の色を、
俺はそのとき、まだ知らなかった。
【前夜祭・夜(美鈴視点)】
私があの日、手を振ったのは――
無意識だったのかもしれない。
ただ、灯りの下で誰かと目が合って、
気づいたら、蓮くんだった。
彼は驚いた顔をして、
でもすぐにこちらへ歩いてきた。
「"停戦中"だし、ね」
そう言って笑ったのは、私のほうだったけど、
心の中ではもっと複雑な気持ちが渦巻いていた。
この文化祭は、
“与えられた青春”の集大成。
でも、あのときの蓮くんの背中は、
まるでそこに立っていなかった。
違う場所を見ていた。
違う色をしていた。
私はその背中を、
なぜか、忘れたくないと思った。
提灯の灯りが風に揺れる。
軽音部の演奏がステージから響いてくる。
でも、私が見ていたのは――
蓮くんのいる、暗がりの方だった。
「違うよ、蓮くん。
あなたの場所は、誰にも決めさせなくていいんだよ」
心の中でだけ、そう呟いていた。
そのとき、夜がほんの少しだけ、優しくなった気がした。
この夜、始まったもの
この夜、誰も気づかないところで、
ほんの小さな火が灯った。
与えられた役割を超えて、
誰かの手によって生まれた“本当のアオハル”が――
音もなく、確かに、始まろうとしていた。