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第8章


 あれから数日が経つ。

 放課後ダンジョンの封鎖を藤堂司が宣言し、学園も一見すると落ち着きを取り戻したように見える。

 だが、俺の胸の奥には、ずっと言いようのないざわめきが渦巻いている。

 理事長が消えたまま。先生の兄さんの行方も依然としてわからない。

 何より、一度暴走しかけた“裏側”の力が本当に沈静化したのかどうか、確証が持てないのだ。


「天城、何かあったの?」

 昼の教室で同級生に声をかけられ、ふと意識が戻る。

 俺はノートの上で止まったペンに気づいて軽く笑う。

「ごめん、ぼーっとしてた。最近ちょっと寝不足でな」

「あんた、前からサボり癖あるくせに、妙なとこで頑張るよね」


 そう茶化す彼女に適当にあしらう返事をしつつ、心ここにあらずの気分は変わらない。

 そもそも、今の学園は“表面”こそ平穏だが、内部では複雑な噂が絶えない。

 理事長が“出張中”という公式発表にしても、真に受ける生徒はほとんどいないし、教師たちからも妙な緊張感が漂っているのが伝わる。

 そして、生徒会長・藤堂司も表向き「再び学園を立て直す」と宣言したものの、かつての威厳は今ひとつ取り戻せていない。

 ――まあ、あれだけ大きな衝突を経たんだ。当たり前と言えば当たり前だろう。


 休み時間が終わり、午後の授業が始まる。

 黒板に向かう先生の説明が耳に入ってこないわけじゃないが、集中力は散漫だ。

「……ってわけで、この範囲は次回の確認テストに出すから、ちゃんと予習復習しておいてね」

 教師がそう言うのを聞きながら、俺は机の下でこっそり溜め息をつく。

 こんなふうに“普通の授業”を受けている瞬間ですら、頭の半分は“別の場所”にある。

 どこかにいる理事長、行方不明のままのリシア先生の兄――そして、あの放課後ダンジョンの二重構造の名残。


「……放課後ダンジョンが封鎖されても、裏ルートは残ってるんだよな」

 小さくつぶやいたところで、リシア先生の姿が脳裏に浮かぶ。

 夜遅くまで兄の手がかりを探し、俺も付き合って奥底の調査をしてきた。

 魔導核の“真の”暴走を止めたというのに、あれは本当に最終的な歪みを断ち切ったのか。

 もし二重構造のさらに奥――かつて御神楽教授が言っていた“世界の理を壊す”力の一端が残っているなら、再び危機がやって来てもおかしくはない。



 放課後、教室を出る。

 廊下を歩くと、以前とは違った空気があるのがわかる。

 生徒たちの多くは部活や下校へ向かい、以前のように「裏ダンジョンをのぞきに行く」なんてことは激減している。

 藤堂が方針を変えたことで、ダンジョン攻略がしばらく休止になったのも大きい。

 もっとも、これが本当に“安全”になった証拠ではないだろうし、俺はただの問題児として好き勝手に動けるわけでもない。


 と、そんなことを考えていると、遠くから軽い足音が聞こえる。

 振り返ると、リシア先生がこちらに向かって早足でやってくる。

 相変わらずタイトなスカートとジャケット姿がきりりとしていて、でも少し焦りを帯びた表情が見て取れた。


「天城君、今、時間ある? 職員室の荷物整理を手伝ってほしいんだけど」

 その口調は、他の生徒に聞かれたら教師らしい“用事”の頼みごとに思えるだろう。

 だが、先生の目を見れば、それが建前でしかないことは一瞬でわかる。

「わかりました。行きましょう」


 言葉少なに頷き合いながら、一緒に職員室へ向かう。

 多くの教師がまだ残ってはいるが、先生が小声で「少し奥に行きましょう」と指示を出す。

 人気のない書架の隅へ移動すると、先生はすっと表情を険しくする。


「藤堂くんが学園の安全宣言をしてから、生徒たちはダンジョンへの興味を失いつつあるわ。これは良いことかもしれない。でも、その裏で妙な動きがあるの」

「妙な動きって……やっぱり理事長の残党とか、生徒会の一部がまた変な研究を?」

「確証はない。ただ、一部の教師がこっそりダンジョンの奥へ出入りしているって情報を得たの。まだ噂程度だけど、放っておけないわ」


 先生がまぶたを伏せながら続ける。

「兄が消えたときも、周囲の教師たちが『個人的に調査してるだけ』って言い張っていた。その結果、誰も本当の黒幕を追及できなかった。……正直、嫌な予感がするの」


 確かに、理事長一人が姿を消したからといって、裏の計画がすべて瓦解したとは限らない。

 禁断の研究が学園の“組織”に根を張っている可能性は高い。


「先生、行きましょう。俺たちはまだ裏ルートを知ってるし、すぐに潜れる状態だ。もし何か起きているなら、先に突き止めるしかない」

 俺が決意を固めて声を潜めると、先生は「…そうね」と苦い顔をする。

「また“残業禁止違反”になってしまうけど……一度、奥に行って確かめるしかないわ」


 そうして、今日の放課後に再び調査へ向かうことが決まった。



「――やっぱり、二重構造が全部なくなったわけじゃなさそう」


 地下の旧研究室に潜り込み、ひっそり開いた隠し扉を抜けた先で、俺と先生は息を呑む。

 あのとき魔導核を破壊した影響で、深い部分まで崩落したと思われていた通路が、一部だけ修復されているのか、あるいは別のルートが生まれたのか――微妙に形が変わっている。

 壁には新しいひび割れが走り、そこからかすかな冷気が漂っていた。


「これ、誰かが通った痕跡がありますよ。土が踏み固められてる」

 俺は懐中ライトを地面に向けて照らす。確かに靴跡のようなものが薄く残っている。

 先生が剣の柄に手をやりながら、低い声で応じる。

「やっぱり、私たち以外に出入りしてる人がいるんだわ。……もし理事長の仲間だとしたら、何を狙っているのか」


 水滴がぽたぽたと落ちる音が、廃墟のような通路に響く。

 薄闇に沈むその先を進むと、昼間の学園とは似ても似つかない凄惨な雰囲気。放課後ダンジョンの気配が完全には消えていないのだろう。


 しかし、以前ほどモンスターがうろついている様子はない。

 大規模な魔導核が破壊されたせいか、モンスターの大半は消失したのかもしれない。

 そのかわり、嫌な胸騒ぎが絶えず続いている。


 数分進んだところで、突然、奥から人の声が聞こえてきた。

 ごつん、と何かを叩くような音と、複数の人間が押し殺したような会話。

「先生、誰かいますね」

「ええ。……慎重に近づきましょう」


 物陰に隠れながらそっと覗くと、そこにいたのは白衣を着た中年の男性――学園の研究員だろうか、それと数名の教師らしき人物。

 彼らは崩れかけた壁を灯火で照らし、何やら道具を使って石をどけようとしている。

 そして、その壁の先には小さな空洞があり、中に魔法陣の破片のようなものが見えていた。


「急げ。ここが完全に封じられてしまう前に、残りのサンプルを回収しなければ」

「理事長の計画が失敗したとわかった今こそ、我々が成果を手にするんだ……!」


 そんな言葉が聞こえてきて、先生と目を見合わせる。

 ――理事長の計画を“利用”しようとしている連中、ということなのか。

 まるで敗走する軍隊が取り残した武器をかき集めるかのように、“研究の残りカス”を奪おうとしているのだろう。


「このまま放っておけないわね……」

 先生が鋭い視線で呟く。

 俺も同感だ。魔導核の残滓や教授の研究成果が再利用されれば、また新たな危機が生まれてもおかしくない。


「先生、どうします? ここで見逃したら、後々面倒ですよ」

「そうね。危険は承知だけど、ここで止めなきゃ」


 俺たちは気配を殺してさらに距離を詰める。

 敵は四、五人といったところか。研究者や教師だからと侮っていいかわからないが、いま目の前で見える姿は戦闘向きではなさそうだ。

 ただ、奥の魔法陣から何か妙な瘴気を感じる。下手をすれば、モンスターを呼び起こしかねない。


「――おい、誰か来たぞ」

 こちらの気配に気づいたのか、一人が顔を上げる。

 もう隠れていられない。俺と先生は、さっと通路の角から飛び出す。

「勝手に何をしているの。学園でそんな違法な研究は認められないわよ!」

 先生が教師としての威厳を込めて叱責する。


 研究者たちは明らかに動揺しているが、すぐに低い声をあげて対抗の姿勢を見せる。

「何を今さら……貴様らも理事長や御神楽教授の言葉を聞いていたはずだ。異世界の理を解き明かせば、人類はさらなるステージへ行けるんだ!」

「あの研究がどれだけ危険か、もうわかっているはずでしょう!? それでもまだ続けるつもりなの?」

 先生の剣先が震えているのは、怒りのためか、それとも悔しさか。


 一方で、研究者の後ろにいた教師らしき男が、不気味な魔導具を取り出し、何やら呪文めいたものを唱え始める。

「この地には、まだ賢者の書にも記されない“禁断のルーン”が眠っている。俺たちが手にすれば、理事長など比べものにならない力を得られるはずだ……!」


「ちっ、やっぱりモンスターを呼び出すつもりですかね」

 俺は先生をかばうように一歩前に出る。

 相手が本気で危険な魔術に手を染めるなら、ここで止めねばならない。


「先生、まずあの魔導具を壊しましょう。そいつが厄介そうだ」

「ええ。手伝って」


 掛け合いの合図と同時に、俺たちは一気に攻勢に移る。

 研究員たちは怯んで散り散りになるが、魔導具を持った男だけは奇妙な力でこちらを威嚇するように魔力の波を放出してきた。

 生徒会長・藤堂ほどの洗練された制御は感じないが、それでも不用意に近づけば呪詛を浴びそうだ。


「うおっ……!」

 地面が震え、魔法陣の紋様が蒼白い光を放つ。

 どうやらこの場所自体にまだ残滓の結界が残っていて、それを利用しようとしているらしい。

 先生が咄嗟に結界魔法で防ぎながら、俺に合図を送る。

「悠真君、今ならいけるわ!」

「よし!」


 相手の攻撃が途切れた一瞬の隙をついて、俺は高速で踏み込み、魔導具を持つ男の腕を狙う。

 これまで幾多のモンスターとやり合ってきた経験からすれば、人間相手の動きなど見切れる。

 脇腹への一撃で相手の身体が傾いた瞬間、手から魔導具がすっぽ抜ける。

 同時に先生が鋭い斬撃を放ち、床へ落ちた魔導具を真っ二つに断ち割る。


「うああっ……!」

 男が膝をついて絶叫し、苦しげにうずくまる。その背後では、研究員の一人が魔法陣を消そうと躍起になっているが、もう手遅れだろう。

 結界は逆流を起こし、ビリビリと放電するように火花を散らしている。


「退け! こんな場所にいたら巻き込まれる!」

 俺が怒鳴ると、研究員たちは我先にと逃げ出す。

 魔導具が壊れ、結界が乱れた今、彼らの研究計画も頓挫するはずだ。

 ただ、空気に漂う不快な魔力はまだ完全には消えていない。


「先生、やばいです……このままだと空間が崩壊するかもしれない」

 俺がそう警戒すると、先生は急いで床に刻まれた紋様を確認する。

「見たことのないルーンが混じってる……でも、中心部の仕掛けを壊せば安定するはず」


 二人で破壊活動を開始しようとした矢先、奥から新たな影が現れる。

 思わず構え直すと――そこにいたのは、一人の男性。ぼさぼさの髪と鋭い眼差しを持ち、こちらを射すくめるように見つめている。

「――兄さん……!?」

 先生が息を呑んで凍りつく。


 まさかの再会。いや、まさかの場面すぎる。

 先生の兄さんがそこに立っている。彼は廃墟の中でもまるで亡霊のように佇み、表情には生気が乏しい。

 一瞬で理解する。長らく行方不明だった人が、こんな場所で何をしているのか。

 ――そして、なぜ“いま”姿を見せるのか。


「リシア……?」

 兄が、低い声でそう呟いた。

 先生の瞳は涙で潤み、震える声で叫ぶ。

「兄さん……どこに行っていたの!? どうして、こんな――」


 だが、兄はその言葉を最後まで聞かず、ゆっくりと首を横に振る。

 彼の瞳には、どこか遠い闇が宿っている。

「……理事長の研究に関わっていたのは事実だ。でも、俺は……抜け出せなくなっていたんだ。あの実験場で、御神楽教授の理論を理解した時点で、もう普通の世界には戻れなくなった」


 苦しげに呟く彼に、先生は震えたまま近寄ろうとする。

「そんな……戻れないなんて言わないで! あなたは生きてるじゃない! 一緒に帰りましょう!」

「……無理だよ、リシア。俺はすでに“向こう側”を覗いてしまった」


 彼が伸ばした手からは、異様な魔力の痕が見える。まるで身体の一部が侵食されているかのようだ。

 心臓が嫌な音を立てる。

 もしかして、先生の兄は理事長や御神楽教授の計画の中で、“異世界の理”を身体に取り込んでしまったのか。

 だからこそ、この場所で暗躍していた研究者たちが“サンプル回収”などと言っていたのかもしれない。


 先生が必死に手を伸ばす。

「兄さん、そんな……帰れるわ。私たちが力を合わせれば、絶対に!」

 けれど、兄は後退するように一歩身を引き、そのままこちらを見ないまま壁のほうへ目をやる。

「俺は“中間”の存在になってしまった。理事長が消えて、御神楽教授の影が薄れても……あの力は完全には消えていない」


 どくん、と空間が鼓動するような振動が走る。

 さっき破壊したはずの結界が再びうねり出し、中心部に黒い渦が生まれる。

 嫌な圧力が空気を歪ませ、床が不気味に軋む。


 先生の兄がわずかに俯き、寂しげな声を落とす。

「すまない、リシア。俺はこのままじゃ、いずれ“化け物”になる。理事長たちに利用されて、捨てられたんだ。……でも、最後に一つだけ、お願いがある」

「お願いって……兄さん、何を言って――」


 次の瞬間、兄は先生をぐっと強く見つめる。荒んだ瞳の奥に、一筋の優しさが残っているのがわかる。

「俺の身体には、まだ御神楽教授の術式が刻まれている。もしこのまま放っておけば、再びダンジョンが暴走し、学園を呑み込むかもしれない」

「じゃあ、一緒にそれを解いて――」

「無理なんだ。もう術式は俺の魂にまで入り込んでいる。解くには、俺ごと“核”を破壊するしかない」


 その言葉の意味を理解した瞬間、先生が激しく首を振る。

「嫌よ……そんなこと! 一緒に帰って、医療部や生徒会のみんなと対策を考えれば――」

「リシア……。お前が生きてここにいてくれるだけで、俺は十分だ。最後にこうして姿を見せることもできた。……これで、いいんだよ」


 悲痛な表情で呟く兄に、先生はどう答えたらいいのかわからない。涙が音もなく頬を伝う。

 そのあいだにも、空間の揺らぎが加速し、黒い渦が大きくなっていく。

 兄はまるで受け入れるかのように、その渦のほうへゆっくりと歩を進める。


「ちょっと待ってください……本当に他に方法はないんですか?」

 俺もいても立ってもいられず声をかけるが、兄はかすかに苦笑して振り返るだけだ。

「お前がリシアを支えてくれたんだろう? ありがとう。……リシアがこんな無茶を続けられたのは、お前がいたからだと思う」

「そ、そんなの……先生が勝手に頑張ってただけで――」


 自分の言葉が空回りするのを感じる。どうにもならない現実が目の前にある。それでも抗う術を探してしまう。

「待てよ、先生の兄さん……本当に自分を犠牲にする以外に手段はないんですか? 俺たちもいろいろ見てきました。御神楽教授の理論だって――」

「もう、時間がない。こんな不安定な状態を放置すれば、また学園が深い闇に呑まれてしまう。……俺は、それだけは避けたい」


 兄が視線を下に落とすと、足元を中心に魔法陣の光がにじむように広がり始める。

 暗い血のような色合いを帯びたその紋様は、先ほど壊した結界の残骸と連動しているのかもしれない。

 ――つまり、先生の兄は自分自身を“核”として封印するため、この場に留まろうとしているのか。


「いや……ダメだ。先生、何とか止めましょうよ!」

 俺が焦って先生を見ると、先生もまた兄に駆け寄ろうとする。

「兄さんをこんな形で失うなんて、私は嫌よ! こんな再会、納得できるはずないじゃない!」


 しかし兄は微笑みながら、そっと手のひらを上げて制止する。

「リシア、ありがとう。……お前が生徒たちを守るために奔走している姿、ずっと見ていた。俺は誇りに思うよ。でも、俺にはこうするしかないんだ。お前が守りたいと思う未来を、壊させるわけにはいかない」


 兄の口調は落ち着いているが、その目には切実な決意が宿っている。

 そして魔法陣がさらに明るく輝き、周囲の空間が歪む。

 轟音とともに闇の渦が兄を中心に激しく渦巻く――このままでは通路ごと崩壊しかねない。


 先生が叫ぶ。

「そんな……嫌よ、行かないで……!」

 俺も唇を噛む。気づけば足が震えている。こんな別れを見過ごすなんて、先生のためにも耐えられない。

 ――だが、どうしようもない。彼が抱えている異世界の瘴気は、まるで呪いのようにまとわりついているのが目に見える。


 兄は最後に、先生へ近づくような仕草を見せ、すぐにそれを諦めるように手を下ろす。

 そして、かすれた声で囁いた。

「リシア、お前は幸せになれ。俺の分まで……な」


 その瞬間、魔法陣が最高潮の輝きを放ち、兄の身体を呑み込む。

 先生は必死に手を伸ばすが、まるで透明な壁に遮られたかのように届かない。

「兄さあああああんっ!!」


 先生の絶叫が通路に木霊する。その直後、凄まじい衝撃波が走り、俺たちは思わず壁に身体をぶつけられる。

「くっ……!」

 視界がぐらつき、耳鳴りが止まらない。

 それでも意識を保ち、ふと見れば黒い渦が静かに収縮していき、兄の姿はもうどこにもない。


「……嘘、嘘よ。兄さん……!」

 先生が膝をついて崩れ落ちる。泣き叫んでも、その姿は戻らない。

 ただ、空間のひび割れはピタリと止まり、崩落の気配は薄れている。

 兄は自分が“隔離装置”となることで、この歪みを封印しようとしたのだ。


 どうすればいいのか。

 気づけば、先生が震える手で地面を叩きながらうつむいている。

「ごめんなさい……兄さんを助けるって、あんなに誓ったのに……!」


 俺は何も言えない。

 結局、先生の兄さんは自分の意志で犠牲となったのだ。彼が本当はどう思っていたのか、俺には想像もつかない。

 でも、あの寂しげな微笑みが嘘じゃなかったと思いたい。

 先生を“救いたい”という最後の意志――それを、どう受け止めればいいのか。


 俺は震える先生の背中に手を置く。

「先生……俺、何もできなかった。ごめん……」

「そんな、あなたのせいじゃない……。私が、もっと早く兄を探せていれば……!」


 涙が床に落ちる音が痛ましい。

 胸が締め付けられる。こんな最悪の形でしか再会できなかったなんて。

 だけど、兄の意志を無駄にするわけにはいかない。それが、今の俺に言える唯一の言葉だ。


「先生の兄さん、きっと最後まで先生のことを大事に思っていた。だからこそ、あんな形でこの場を収めたんだと思います」

「でも……こんなの、辛すぎるじゃない……」

「……はい。だけど、先生が生きているかぎり、兄さんの想いはここにあるんじゃないですか」


 俺の言葉に、先生は静かに顔を上げる。涙に濡れた瞳の奥に、消えそうな光が揺れている。

「私は……どうすればいいの?」

「先生が泣き止むのを、兄さんは望んでると思います。あの人は、先生が幸せになることを願っていた。だから……生きてください。先生の大切なものを守るために」


 言葉をつむぐうちに、俺の胸にも熱いものがこみ上げる。

 先生の兄がそう選んだのなら、俺はその意志を継ぎたい。

 どんな歪みが残っていようと、先生が悲しむ未来だけは壊してやる。


 先生はしばらく泣き続け、やがて息を整えると、ゆっくりと頷く。

「……わかった。兄さんの犠牲を無駄にしない。私は私の責任を果たすわ。学園を守るため、そして……兄さんが愛した世界を、私が守ってみせる」

 その言葉を聞いて、俺もようやく少しだけ息ができる気がした。



 黒い渦が消えてから数時間後、俺たちは地上に戻っていた。

 崩壊の危機は止まったが、先生は深い喪失感を抱えているのがありありと伝わる。

 それでも、泣き崩れたままにはなっていない。兄さんの想いを背負って、立ち上がろうとしているのだ。


 夜の風が肌を刺すように冷たい。校舎の窓からはうっすら灯りが漏れているが、ほとんどの生徒や教師は帰宅した後だろう。

 俺は制服のポケットに手を突っ込み、先生を見つめる。

「先生、今は寂しいだろうし、痛いほど辛いですよね。でも、兄さんは先生に託したんですよ。学園の未来も、この世界も」


 先生は黙って頷き、何度も大きく息を吸う。

「そうね。兄さんが守ろうとしたもの……私もこれから、守り抜いてみせる。たとえ理事長がまた現れようと、どんな闇が残っていようと、絶対に挫けない」


 その瞳には、さっきまでの涙とは違う決意が見える。

 そして、ふと先生は弱々しい笑みを浮かべる。

「あなたには本当に感謝してる。私が弱音を吐かずにいられるのは、あなたがいたから。……もう嫌になるくらい、何度も助けられたわ」


 俺は少しだけ照れながら肩をすくめる。

「先生こそ、どんなに危険でも後先考えず突っ走るじゃないですか。俺が止めなかったら、今ごろどこかでモンスターに呑まれてたかも」

「……そうかもしれないわね」


 二人で小さく笑い合う。それはほんの短い静寂だけれど、俺たちが今この瞬間を共有できていることが、何より尊いと感じる。

 本当は先生を抱きしめたい気持ちもあるが、それはまだ早いのだろう。教師と生徒という関係を超えるには、いろいろ越えねばならない壁も多い。


 でも、その想いは確かに通じ合っていると信じたい。

 夜の校舎を背に、俺たちは歩き出す。

「先生、もう遅いですから、今日は帰りましょう。兄さんが眠る場所……あそこを守るためにも、俺たちが倒れたら意味がない」

「……ええ。そうね。帰りましょう。……ありがとう、悠真君」


 先生が俺の名を呼んでくれる。その声は震えているけれど、同時に力強さも感じる。

 俺は心の中でそっと誓う。

 先生の兄さんが最後に示してくれた未来――それを守るために、俺はもっと強くなる。

 理事長がいつ戻ってこようと、学園を食い破る闇がどれだけ深かろうと、今度こそ完全にぶっ壊してみせる。



 翌朝、学園の朝陽を受けながら、俺は何気なく校門をくぐる。

 いつもと変わらない風景。生徒たちのにぎやかな声。

 だけど、その裏には決して消えない深い闇が眠っている。それを封じるために犠牲となった先生の兄さんの想いを、俺は忘れない。


「天城、おはよう!」

 友人が声をかけてくる。俺も「おはよう」と返す。相変わらず“問題児”扱いだろうが、今の俺にはそれで十分だ。


 教室へ向かう途中、ちょうど登校してきたリシア先生とすれ違う。

 彼女は少しだけ疲れた顔で笑って、「おはよう」とだけ言って通り過ぎる。

 昨日のことは、まだ胸に重くのしかかっているだろう。

 でも、その背筋はピンと伸びている。教師としての責任感、そして兄さんの想いを背負っている誇りが、支えになっているのだ。


 ――俺はこれからも、そんな先生を守りたい。

 決して絶望に沈むことのないように、先生の戦いを隣で支える。

 たとえまた“残業禁止違反”をしなくてはならなくなっても、俺は喜んで飛び込んでみせる。

 放課後ダンジョンが表向き封鎖されようと、理事長の闇が残っていようと関係ない。


「先生、残業は禁止ですよね? だけど、あなたが行くなら、俺は必ずついて行きます」


 心の中でそうつぶやきながら、ホームルームの席に着く。

 前方の黒板には、何の変哲もない時間割が貼られていて、教師がやってきて日直を呼び出す光景が見える。

 ――一見すれば、平凡な学園の朝。けれど俺にとっては、そのどこかにまだ危機の芽が潜んでいるのを感じる。


 それでもいい。先生がここにいて、俺がここにいるなら、どんな歪みも打ち砕いてやる。

 世の中の理が歪んだって、先生の涙だけは見たくない。だから、もう迷わない。


「当分、厄介事はごめんだけどな……」

 自分でも呆れるほど昂ぶった気持ちを胸に秘め、俺は窓の外を見上げる。

 青い空が広がっているのに、なぜか遠くの方で雷雲のような黒い影が渦巻いている気がする。

 まるで理事長がいつか帰ってくると示唆しているかのように、不吉な形をしている。


 ――それでも、恐れることはない。先生と一緒に歩む未来を、誰にも汚させるわけにはいかない。

 “世界の理を壊す”……それが御神楽教授や理事長の合言葉だったとしても、俺は別の意味でそれを実行しよう。

 歪んだ世界に囚われた先生の涙を、もう二度と見ないために。


 朝のHRが始まり、担任が穏やかな声で出席を呼ぶ。

 日常が続くように思える学園の片隅で、俺の心は燃え続けている。

 ――これが、俺が選んだ“放課後ダンジョン”のその先の物語。

 たとえどんな闇が訪れようと、先生とともに乗り越えてみせる。


「先生、残業は禁止です。

……だから、もう一度世界が歪もうとしたら、今度は俺が全部ぶっ壊す――」



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