やり直し令息は悪役令嬢を攻略中
タイトルとは裏腹に、主役は悪役令嬢です。
放課後、夕陽が学園の教室を真っ赤に染め上げている。
わたくしは窓辺に立ち、校庭を見下ろしていた。
黒い髪に黒い目をした同級生、サヤが困った顔で校庭を右往左往している。
その近くには、わたくしの婚約者であるロラン王太子殿下。さらさらの金髪をそよかぜになびかせ、物腰やわらかにサヤに声を掛ける。
「どうしたの? サヤ」
「落とし物をしてしまって……。使えはしないのですけど、大事な物なのであきらめられなくて」
「一緒に探すよ」
ロラン殿下は端整な顔に微笑を浮かべ、請け負う。
サヤも微笑を浮かべ、殿下を頼もしそうに見上げる。
唇をかみしめ、わたくしは窓辺から離れた。
手には片手で持てるほどの大きさの、長方形の物体がある。
厚みは硬貨を三枚重ねたくらい。片面は銀色で、もう片面は黒い。
これがサヤの探している“落とし物”だ。彼女が落としていったのを、偶然わたくしが拾った。
手鏡なのかしら?
全体的にとてもなめらかで、黒い面は顔を映すほどだけれど、鏡ほどはっきりとは物の形を映さない。鏡としてはなんとも不十分な品物だ。
庶民の間では、こんなものが鏡として使われているのかしら。哀れね。
「また迷っているのかと思ったよ」
「ひどい、ロラン先輩。また、なんて。私そんなにしょっちゅう迷子になっていませんよ!」
サヤのはしゃいだ声が耳に入ってくる。
わたくしは手の中の不完全な手鏡を握りしめた。
「分をわきまえなさい、小娘……!」
サヤは特待生だ。平民でありながら、貴族の子女が通う学園に入学を許された生徒。
わたくしは彼女が許せない。
庶民だからではない。
特待生という割に、ずば抜けた頭脳も飛びぬけた才能も見当たらないが、国王陛下が認めたことなのだ。
彼女が学園に通うことに異議を唱える気はない。
でも、わたくしの婚約者に手を出していることだけはどうしても許せない。
サヤはロラン様にわたくしという婚約者がいることを知っているくせに、気軽にロラン様に声をかける。
わたくしとロラン様が話しているときでも、なれなれしく寄ってくる。
あまつさえ二人きりで昼食を取ったりもする。
平民ゆえの無作法? 貴族社会の常識を知らない?
それにしたって酷い。
同じく特待生として入学している男子生徒を知っているが、彼は自分の立ち位置を自覚し、周囲になじもうと努力している。
失敗をすれば改め、慣習が分からず困った時は周りに相談して行動する。
サヤはそれすらない。
だれかにやんわりたしなめられても、理解できない顔をして一向に改めない。
まるで自分が世界の中心とばかりに、自分の思うままふるまう。
天真爛漫、堅苦しいところがなくていいと一部の――主に男子――生徒には人気のようだが、わたくしにとっては不愉快の種でしかない。
サヤの落とし物を持つ手に、力がこもる。
感情に任せて床に叩きつけてやろうとしたが、思い止まった。
「もっといい使い方があるわね」
わたくしは落し物を片手に、もう一度校庭を見下ろした。
サヤにはロラン様だけでなく、生徒会長、副会長、首席学生など学園で注目を集めている男子たちも寄ってきていた。
その様子を、少し離れたところで女子生徒たちが苦々しげにしている。
「ふふ……サヤをよく思っていない者が他にもいるじゃない」
公爵家の娘であるわたくしの人脈と権力を駆使すれば、サヤを追い詰める手駒を集めることなど造作もない。
自ら手を汚すなんて馬鹿げている。サヤに嫌がらせをするように仕向ける。それくらい簡単なこと。
彼女が泣きながら学園を去る姿を想像し、わたくしは愉悦を覚えた。
笑いがこみ上げてくる。
「ふふっ、ふふふふふ……おーほっほっほっほ!」
「そこまでです、アデルお姉さま!」
突然教室の扉が開き、澄んだ声が響いた。
戸口にはプラチナブロンドの髪にエメラルドグリーンの瞳をした少年が立っていた。
わたくしの弟のマクシミリアン――マックスだ。
年は八歳。雪花石膏色の肌に薔薇色の頬をした、華奢で美しい少年だ。
以前、わたくしが彼にお古のドレスを着せて女の子のように飾り立てたら、まるでビスクドールのように愛らしかった。
嫌がって泣いていたけれど、その泣き顔すらかわいくて、さらにちょっかいをかけてしまったものだ。
実の弟ではなく父が養子にした義弟だが、愛おしくして仕方ない。
弟妹なんていらないと思っていたから、家に来たときは泣いているマックスに厳しい言葉を吐いてしまったけれど、今はすっかりわたくしのお気に入りだ。
「マックス? おまえ、なぜこんなところに?」
「サヤをいじめようとするお姉さまを止めに来ました」
マックスはわたくしの手からサヤの落とし物を取り上げた。
いじめてやろうと決めたのは今さっきのことなのに。
なぜ、もうわたくしの心の内を知っているの?
「信じられないと思いますが、ぼくは未来から死に戻ってきたんです」
「死に戻っ……?」
マックスはサヤの落とし物をそばの机に置き、話をつづける。
「アデルお姉さまは、これからサヤをいじめます。いじめていじめて、彼女を学園から追い出そうとする。でも、最後に追放されるのはお姉さまの方です」
「なんですって?」
「学園の卒業パーティーでお姉さまの悪行は暴かれて、ロラン殿下から断罪されるんですよ」
マックスはわたくしに人差し指を突きつけた。高らかに宣告する。
「『アデル=ド=ブランシュフォール、おまえとの婚約を破棄する!』ってね」
「なぜわたくしが処罰されるのよ。悪いのは、まったく分をわきまえない小娘の方でしょう!?」
「残念ながら、サヤはただの平凡な娘ではないんです。
彼女は、異世界から召喚されたこの国の救世主なんですよ」
わたくしは束の間、声を失った。
「救世主ですって!?
国王陛下は本当に異世界召喚を行ったの? あの夢物語のようなことを?
どんなものが呼び出されるか分からないから危ない、とうちの父が強く進言したではないの」
マックスは静かに首を横にふった。
とにもかくにも諫言は無視され、異世界召喚は行われてしまったらしい。
「そういうわけなので、お姉さまがサヤをいじめた行動は嫉妬ではなく『救世主を狙った悪意』だと拡大解釈されます。
お姉さまは国賊として処罰され、ブランシュフォール家も没落しました。
ぼくも巻き添えを食らって、未来では大変な目に遭いました」
マックスは疲れたように肩を落とした。
胸の前で両手を握り、上目遣いにわたくしを見上げてくる。
「だからお願いです、姉さま。サヤをいじめないでください。ぼくたちの未来をめちゃくちゃにしないでください」
マックスの語る未来には現実味があった。荒唐無稽と一蹴するにはできすぎていた。
サヤが救世主なら特待生扱いも得心がいくし、何かとサヤを気遣うロラン様の態度にも納得がいく。
でもやはり、突然すぎて信じがたい。
死んで戻ってきたというマックスに疑惑の目をむける。
「……マックス。おまえ、頭でも打ったのではなくて?」
「打ちましたねえ。ぼくは階段から突き落とされて死ぬんですが、目が覚めたらこうして八歳に戻っていて。びっくりですよ」
驚いたといいながらも、事態を冷静に俯瞰していて余裕のある態度だ。
いつものマックスとは明らかに違う。
普段のマックスはもっと内気だ。
意に添わないことをされても逆らえない弱虫で、わたくしをまっすぐに見返すこともない。
八歳になっても、わたくしのあげた大きなぬいぐるみを抱いて、何かあるときは上目遣いにたどたどしくお願いをしてくる。そんないたいけな美少年なのだ。
「別にぼくの話を信じなくてもいいですよ、アデル姉さま。
ただ、いじめはやめましょう。無意味です。時間のムダです」
「おまえの知る未来で、ロラン様とサヤはどうなるの?」
「……結婚します」
わたくしは奥歯を噛んだ。
家が破滅するのは困る。
けれど、婚約者が他の女に取られるのを指をくわえて見ているのも屈辱だ。
わたくしの心中を見透かして、マックスは同情の目をむけてくる。
「お気持ちは分かりますよ、姉さま。
どうでしょう、解決策として――姉さまも恋をしては?」
恋の痛手は恋で晴らす。妥当といえば妥当な案だ。
「いい案だけれどね。ロラン様ほどの殿方なんていないわよ」
「いますよ。すぐそばに」
わたくしは親交のある男子生徒の顔を思い浮かべたが、彼らがロラン様より優れているとはとうてい思えなかった。
「いないわ」
「いますよ。目の前に」
マックスが自分を指す。
「今の姿からでは想像しづらいと思いますけれど、将来はロラン王子より格好よくて強くて賢くなりますよ? 本当です」
わたくしはぬけぬけと言い放つ義弟にあっけに取られ、次に怒りを爆発させた。
「ふざけないで!」
「ふざけてません」
緑色の瞳がひたりとわたくしを見詰める。
八歳児にはありえないほどの真剣さと気迫だった。
「ぼくは本気です。ぼくには姉さまが必要なんです」
「必要って、なぜ」
「姉さまがすばらしい方だからです」
突然、褒められた。
とまどうわたくしを置いて、マックスは怒涛のように語りだす。
「いじめはよくないことです。断固反対です。
でも、ぼくは未来で姉さまのいじめの手腕を見て感服したのです。
人脈を駆使して必要な駒を集める力。自分の手は絶対に汚さない慎重さ。相手の弱点を的確に見抜き、最大のダメージを与える策を練る頭脳!
たとえばサヤが王子と町を歩いていただけでも“二人がデートしていた”ということにして噂を流し、自分は泣いて同情を集める。
たとえばサヤが困っていれば生徒会長に教えて手助けするよう仕向け、女子生徒たちのサヤへの悪感情をあおる。
こんなこと、普通の人にはなかなかできませんよ。
もはや老獪な策略家です。
姉さまは人を動かし、状況を支配する才能があるんです。とんでもないレベルで!
姉さまのような方なんて、なかなかいません!」
「褒めているの、それは!?」
わたくしは眉を逆立てたが、マックスは臆さなかった。
「褒めてます!
だって、もしこの力を正しい方向に使ったら?
弱い者をいじめるのではなく、政敵や外敵を倒すのに使ったら?
姉さまほどの方がパートナーになったら、どれだけ頼もしいことか!」
マックスは満足げに語り、最後にいらない話をつけ足した。
「最後、手駒の不良生徒がサヤへ寝返ったせいで失敗しましたけど。ま、そこは愛嬌ですよね。
“どーせ悪ぶってるのが格好いいと思っているんでしょう? 浅っ”なんて。
思っていてもいっちゃいけませんよ。十代の少年の心はガラスのように繊細なんですからね?」
「なんでまだ言ってもないことでけなされないといけないのよ!」
こっちのご機嫌などおかまいなしに、マックスはわたくしの白い手を取った。
声のトーンを落として、告白してくる。
「見る目のない王子のことなんて忘れて、ぼくと付き合ってください、アデル」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。
落ち着いた口調と、一段落とした声音は大人っぽい。狼狽する。
が、負けじと手をふり払ってぷにぷにの頬をつねる。
「お断りよ!」
「なぜですか。実の姉弟ではないですし、問題ありませんよね」
「年下はイヤなの」
「中身は――二十ですよ。大人です」
十年ほど待ってくださいと懇願されたが、わたくしはそっぽをむいた。
マックスは弟という意識が強すぎて、口説かれても全然心に響かない。
「身分だって釣り合わないわ。わたくしは公爵家の娘だけれど、あなたはただの養子だもの」
「実はぼく、隣国グリムシュタットの王子です」
「はあ!?」
唐突な話に、わたくしはまた目をむいた。
「なぜ姉さまの家の養子になったかといえば、王宮内でゴタゴタがあったからなんですよ」
マックスの話をまとめると、こういうことだった。
彼の父はグリムシュタットの国王だが、暗殺された。
犯人は王の弟で、マックスにとっては叔父にあたる人物。王としての権力と贅沢三昧の生活を欲しがっての犯行だった。
マックスには兄がいたが、彼らも叔父によって次々と命を奪われた。
マックスにも魔の手は伸びたが、先王に忠実だった家臣が彼を助けた。家臣はマックスを死んだことにして、この国――シャルトランに逃がした。
運のいいことに、マックスはブランシュフォール家の遠縁だった。
ブランシュフォール公爵はマックスを養子として受け入れ、匿ってくれたというわけだった。
「ですから今から三年後、姉さまが断罪された時は大変でした。
ブランシュフォール公爵家が没落してしまったので、ぼくも家を出ざるを得なかった。
本当は十六を過ぎてから王位奪還に動くつもりだったんですけどね。予定を早めました」
マックスの口調は淡々としていたが、苦労したであろうことは容易に想像がついた。
十六にもならないうちから争いの渦中に身を置くはめになったのだから。
それに、王位奪還の際はきっとブランシュフォール家が援助するはずだったろう。
故国の家臣に味方はいただろうが、当初の予定よりずっと不利な状況だ。
思いがけなく成長したマックスの今の姿は、苦労の反証に思えた。
「それは大変だったわね……」
つい、くせで、マックスの頭をなでる。白金の髪は猫の毛のように細くてやわらかい。
「さっき、階段から突き落とされて死んだと言っていたけれど……それは王位奪還のさなかに? 敵にやられたの?」
「やったのは叔父です。最後の最後に油断しました。父と兄の墓前で泣いて詫び『悪かった、これからは改心する』とひれ伏して謝るので、縄を解いたら――このざまです」
マックスは腕をひろげ、幼い自分の身体を披露する。
わたくしは同情を忘れ、あきれた。
「それはだめよ、マックス。暗殺なんてするような相手の言葉を信じてはいけないわ。
そういうやからにとって誓いの言葉は相手を縛る鎖であり、自分の都合を押し通すための道具に過ぎないのよ? 信じるおまえが悪いわよ」
「さすがです、姉上。その分析力と洞察力に感服いたします」
マックスは背伸びをして、ずいと身を乗り出してきた。
「あのとき姉上がぼくのそばにいて下さっていたら、と思わずにはいられません。
今世は叔父が何を言おうと油断したりしないと固く誓っていますが、姉さまがそばにいてくださればこんなに心強いことはありません。
だからどうかお願いです、ぼくと結婚してください。
生涯、姉さまだけを愛すると誓います。側室なんてとりませんし、寵姫を作ったりもしません。ぼくには生涯、あなただけです」
幼い顔に似合わない、真剣そのもののプロポーズ。
わたくしは心の中で少しだけ迷った。グリムシュタットはシャルトランよりも豊かで、王妃の地位は魅力的だ。
が。
「イ・ヤ・よ!」
いくら言い換えて称賛されようと、いじめっ子としての素質を見込まれている、というのは腹立たしい。
マックスのいいぐさも気に入らない。妃といっているが、手駒扱いではないのか。
「わたくしはね、結婚というものは生きるための手段、家を存続させていくための手段にすぎないと理解しているわ。でもね……少しは夢を見ているのよ」
わたくしは磨かれた爪の光る指先をこねあわせた。
貴族の娘としての心得を叩きこまれて来た身だけれども、年相応に浮ついた気持ちはある。
やっぱり少しは期待してしまう。
お互いに好き合って結ばれ、愛し愛される結婚生活を。
「姉さまはロラン殿下のどこに惚れたのですか?」
「全部よ。はじめてお会いしたとき、思ったの。みんなが憧れる王子様そのものだわ……って。格好良くて強くて優しくて。一目惚れだった」
美しい金髪、凪いだ海のように穏やかな碧眼、優雅で堂々とした立ち振る舞い。
年は一つ上で、若々しく輝いている。
物語に出てくる理想の王子様そのものだった。
「なるほど。たしかにロラン殿下は白馬の王子様、ですよね。
でも、年を取ったらどうでしょうね?
王子は現国王陛下の若い頃にそっくりだそうですよ」
わたくしは面食らった。
脳裏にシャルトラン国王陛下の姿を思い浮かべる。
貫禄はあるが、豊かすぎる腹回りに凛々しさはない。
目鼻立ちは良いけれど、髪の生え際は後退してっぺんは荒野になりつつある。
口を開けて豪快に笑うお顔には励まされるけれど、甘いもの好きがたたって抜けた歯がどうしても気になる。
かつてロラン様のようだったとは思えない。
……か、髪は血筋の要素があるから仕方ないとして……
「……体形は節制すれば」
「ロラン殿下は陛下と同じく甘いものがお好きですよ」
「嘘!」
ロラン王子は晩餐のデザートを召し上がらないし、二人でお茶しているときも甘いものにはいっさい手を付けない。
「今は厳しい侍女に止められているようですけどね。
五年後にお見かけしたときは、ややふくよかになっていらっしゃいましたね。
サヤが異世界のおいしくてめずらしいお菓子を作るので、やめられないのだとか」
絶句した。
ケーキがおいしいと話題のカフェに誘っても、わたくしは断られたのに……
「強いというのは、城内で行われていた剣術試合で優勝していたからでしょうか?
あれはみんな王子に遠慮していますからね? 順位を鵜呑みにしない方がいいですよ」
「それくらいは分かってるわよ。でも、人並み以上の腕はおありでしょ」
反論すると、マックスはしつこく反論してきた。
「あっても、ルールに則った試合での強さなので、実戦での強さとは違います。
実戦でならぼくは勝つ自信があります」
「まあ」
成長すれば違うのだろうけれど、勇ましい言葉とは裏腹に今のマックスは華奢だ。
つい小さく笑ってしまった。
マックスがむっとしている。
さらに怒るからいわないけれど、本当、怒っていても綺麗な子ね。
きゅっと寄せらていても細い眉が整っていることは変わらないし、とがった唇は熟れたサクランボのよう。
かわいいかわいい、わたくしの弟。
なのに、かわいい弟はかわいくないことを言う。
「王子は優しいというのには全面的に賛成ですよ。優しいですよね。全員に。平等に」
「……イヤな言い方をするのね」
わたくしにだけ優しいわけではないと強調され、心がざらついた。
わたくしもそれは分かっている。でも見ないフリをしている。
「一目惚れだったのよ。初恋だったの。あんまり意地の悪いこと言わないでちょうだい、マックス」
「ふうん。そう言うってことは、かなり幻滅してきているんですね。ロラン殿下に」
やめてと言っているのに、なんて酷い子なのかしら。
エメラルドグリーンの瞳がこちらの顔を覗きこんでくる。わたくしの反応を楽しんでいた。
「憎たらしい。目に入れても痛くないほどかわいがっていた弟がこんなふうに育つなんて。あなたにも幻滅よ」
「どんなにかわいい弟だって、成長すればこんなものです。いつまでもお人形みたいではないんですよ」
売り言葉に買い言葉だ。二人きりの教室に険悪な空気が漂う。
本当に別人ね。
気弱な義弟は口答えなんてしなかった。
死に戻ってきたマックスにとっては突然の変化ではないのだろうけれど、わたくしには急な、急すぎる変化だ。戸惑いを隠せない。
同時に、さみしい。
この子はもうわたくしがいなくても平気なんだわ。
熱を出したとき、おかゆを食べさせてやったり、頭を冷やしてやったり、眠れるまで手を握っていてやったことが懐かしい。
――そう思っていたが、マックスの自信に満ちた態度が揺らいだ。
不安そうに、そっぽを向いているわたくしの顔色をうかがっている。
いつもの弟を垣間見た気がしてほっとした。
「好きというわりに、姉さまは薄情ですね。外見がちょっと変わっただけで恋心が冷めるなんて」
わたくしに嫌われることが怖いくせに、なおもマックスが生意気な口を利いてきた。
「うるさいわね。見た目は大事でしょ!」
「ぼくは冷めませんでしたよ。姉さまと同じく一目惚れでしたけど」
今度はわたくしがむっとする番だった。
わたくしを口説いているくせに、他の女の話をするなんて。
どういう了見?
「あら。おまえにも経験があるの。子供子供と思っていたけれど、恋した経験があったとはね。少し見直したわ」
本当はおもしろくないけれど、そう思っているのを悟られるのが嫌だった。
余裕ぶって質問する。
「相手はどんな女性だったのかしら?」
「太陽のような輝きを持った方でしたよ。
その方を目にした瞬間、急に世界が鮮やかに彩られました。
ただ見惚れてしまって、何も言葉が出なくて。呆けていたら、怒られました。あいさつもできないのかと」
マックスの目は宙に向けられている。
今もその瞬間を思い出しているのだろう、うっとりとしていた。
おもしろくない。
わたくしも美貌には自信があるのに。
黄金色の髪はたんねんにブラッシングして輝いているし、母親譲りの澄んだ碧眼は宝石のようと讃えられるし、肌は焼けないように注意して雪の白さを保っている。
爪も定期的に磨いて、食事に注意して体形維持も怠らない。
おかげでわたくしは『宮廷の赤薔薇』と呼ばれている。
だというのに、マックスの恋した相手はそれをしのぐというの?
「美しいだけ? 性格は?」
「誇り高いお方です。公爵家に来たばかりの頃、国が恋しくて泣いていたら叱られました。
『あなた、今の自分がどれだけ恵まれているかわかっているの? わたくしたちがこうして優雅に暮らせるのは、その分、貴族としての責務を負っているからよ。それを忘れて、ただ泣いているだけなら、ここを出ていきなさい』って。
周りに甘えるばかりだった自分に気づいて情けなくなりましたよ」
……ん?
「女の子の服を着せられたり、からかわれたり。
嫌でしたし恥ずかしかったですけど、ぼくが病気で寝こんだときには『死んではダメよ。許さないわ』と泣きながら看病して下さって。
ぼくはただ弄ばれているのではなくて、愛されているのだと知って、幸せでした。
その方との思い出があったから、ぼくはブランシュフォール家を出ても頑張れたのだと思います」
それって。
「最後に見た時、その方は疲れ切っておいででした。
輝いていた金の髪は光を失い、艶やかな肌もくすんでしまっていました。まぶたの下には薄い影が落ち、頬は痩せ、二十も年を取ったようになっていた。
でも嫌いになったりしませんでしたよ。
むしろ絶対に自分が幸せにしようと誓いました。
王位を奪還したらかならずあなたを迎えに行きます、と約束しました」
マックスはわたくしに、懐かしいものを見るような目をむけた。
先週末、寮から家に帰ったとき、向かい合って食事をしていたというのに。
「結局、王位は奪還できたようでできていませんし。
ぼくは子供に戻ってしまっていて、あなたはまだ婚約破棄もされていませんから、中途半端な感じですけれど。
未来の約束を果たさせてもらえませんか? アデル姉さま」
……反則だわ。こんなの。
マックスが一目惚れした相手って、わたくしってことじゃない!
「階段から落ちた時、思い浮かんだのはアデル姉さまの顔でした。
約束が果たせなかったことが気がかりで、悔しかったんですけど。
まさか時間が巻き戻るとはね、思いもしませんでしたよ。
夢ではないかと今でも疑っています。
――触っても?」
マックスが触りたがっているのは、わたくしの髪だ。
きれいに巻いて垂らしている一房を物欲しそうに見てくる。
「い、いいわよ、べつに」
わたくしはまだ背の低い弟のために椅子に座ってやった。
マックスは何か尊いものに触れるようにわたくしの髪を取る。
手触りを確かめ、鼻を寄せ、心地よさそうに頬をゆるめる。
当然よ。いい香りがしているはずだわ。
髪をすすぐ時には、お湯に精油を垂らしているのだから。
薔薇をベースにジャスミン、ベルガモット、アンバーを複雑に組み合わせた、特別に調合させた香りを。
わたくしはいつだってぬかりない。
「ああ――アデル姉さまのにおいだ。夢じゃない」
マックスはうっとりと、夢見心地で、目の端に涙すら浮かべて、髪に口づけてきた。
言葉にしなくても、表情と仕草が雄弁にこの時をどれだけ夢見てきたかを物語っていた。
全身がかあっと熱くなった。
ロラン様といた時でもこんなに恥ずかしくなったことはない。
嘘でしょう。わたし。まさか。マックスを意識してるの!?
あの弱虫泣き虫マックスを!?
頬に血がのぼる。
赤くなった顔を見られたくなくて勢いよく立ち上がる。
そばの机の上にあるサヤの落とし物を手に取った。
「話は分かったわよ! これはちゃんと返してくるわ。サヤのことはいじめない。
そんな大変な結末が待っていると聞かされたらね、こらえるわよ」
「分かっていただけましたか」
わたくしはマックスに背を向け、早足に扉へと向かった。
廊下を出る前にふり向いて、義弟に一言きっぱりいい残す。
「でもね! あなたと付き合うかどうかはまた別の話ですからね、マックス!」
動悸のおさまらない胸を抑えて、廊下をずんずん突き進む。
ともかくマックスから離れたいというだけで、どこへ行くというあてもなかったのだけれど、そのうちロラン様と行き会った。
殿下の青い瞳が、わたくしの手にある長方形の物体を凝視する。
「アデル、それは」
「これですか? だれのものか知りませんけれど、拾いましたの」
「サヤのだよ。よかった。預かるよ。ずっと探していたんだ」
ロラン様は安堵に微笑した。
胸が痛んだ。
ほんの少しだけ。
驚いた。
ついさっきまで、サヤに笑顔を向けるロラン様に耐えがたい痛みを覚えていたのに。
今覚えた痛みといったら、傷になって残るほどのこともない軽さだ。
「ちなみになんですの? これって」
「さあ。すまーとふぉん、というものらしいよ。僕にはわからないけれど、便利なものらしい」
すまーとふぉん。異世界の物品なのかしらね。
気にはなったがそれ以上の詮索はせず、わたくしはロラン様に落とし物を渡した。
「ちょうどよかった、アデル。誘ってもらっていた週末の観劇なんだけれど……」
「他にご用事が?」
「サヤに王都を案内しないといけなくて」
ロラン様はどこかやましそうに、ややうつむいた。
「実は彼女は、この国にとって大切な賓客なんだ。
父からも、彼女がシャルトラン国で快適に過ごせるよう、気を配るよう言われていてね。すまない」
「そうでしたの。分かりましたわ」
以前なら眉間にしわを寄せていたはずだけれど、今のわたくしはただ素直に受け入れた。
救世主様だものね、と心の中で淡々と納得する。
「ロラン様。わたくしまだサヤさんとお話したことがないのですけれど、どんなお方?」
「いい子だよ。明るくて一生懸命で。飾ったところがないから話しやすい。
貴族ではないから、一緒にいても気負わなくて楽だ」
ロラン様の気持ちは痛いほど理解できた。
王子であるロラン様も、公爵令嬢であるわたくしも、生まれながらにして周囲から持ち上げられ、尊ばれてきた。
多くの人が媚びを売るようにして接してくる。
人々の言葉の裏には常に打算があり、笑顔の奥には下心が透けて見える。
友人と呼べる人間はいても、本当の意味で心を許せる相手など、どこにもいない。
けれどサヤは違う。
異世界からやって来た彼女は、身分ゆえのしがらみとは無縁の存在だ。
この国の救世主である彼女には、王族や公爵家の威光も必要ない。すり寄る必要もない。
だから心の底からまっすぐに言葉を紡ぐことができる。打算なく人と向き合える。
そんな相手と過ごせるのなら、肩の力が抜けるのも当然だ。
サヤといると、ロラン様はようやく本当の意味で『一人の人間』に戻れるのだろう。
「彼女といると安らぐんだ。君もきっと彼女と仲良くできると思う」
無邪気なロラン様の言葉に、不意に怒りが湧いた。
サヤに嫉妬したからではない。
これは王子としてのロラン様への怒りだ。
「わたくしは無理かもしれません」
「え?」
「わたくしたちは孤独です。でも孤独は人の上に立つ者の責務の一つだと思っておりますので。安らぎたくて彼女と仲良くしようとは思いません」
目が覚めた。
わたくしとこの人は違う人種なのだ。
マックスの話では、王子はわたくしとの婚約を破棄しサヤと結婚したという。
わたくしにはそれが“逃げ”に思えて仕方ない。
もしわたくしがロラン様だったら?
わたくしはきっと婚約者を捨てはしない。
サヤは国を救う大事な存在だ。
でも、救った国を維持していくのに必要なのは婚約者だ。
それこそマックスのように、いじめに対してはなんて愚かなことをと怒りながらも、その手腕はひそかに認めて利用することを選ぶ。
わたくしは今、ようやく浮ついた夢心地の初恋から醒めた。
心からサヤを心配する。
「殿下、どうぞわたくしのことは気にせず、サヤさんによくしてあげてくださいませね。
慣れない場所に来て不安でしょうから」
わたくしの言葉にロラン様は一瞬、目を瞬かせる。
ロラン様とサヤが微笑み合い、腕を組んで歩き、やがて抱きしめ合うところまで想像しても、わたくしはもう心がちっとも痛まなかった。
婚約破棄?
上等よ。いつでも受けるわ。どうぞお気軽に。
わたくしは完璧なカーテシーを披露し、顔には笑顔の仮面を貼りつけた。
「ではご機嫌よう、殿下。また明日」
「――アデル! 待ってくれ。観劇の話だけど、別の日はどうかな? 来週は?」
ロラン様の提案に、わたくしは顔には出さずうんざりした。
気が進まない。面倒くさい。彼への興味は一気に失せた。
「来週は他に予定が」
「空いている日は? 僕が都合を合わせるよ」
イライラしてきた。
何年宮廷で王子をやっているのかしら。
『他に予定が』なんて断り文句『行きたくない』の言い換えだって分かるでしょうに。
今までサヤを優先していたくせに、こちらが退いたらなぜ追ってくるのよ!
ロラン様の対処に苦慮していたら、かわいらしい声の助け船が出された。
「ロラン様。アデル姉さまはその劇、実は僕と観に行く約束をしているんですよ」
マックスだ。したり顔で同意を求めてくる。
「ね? 姉さま」
「……申し訳ございません、ロラン様。殿下を誘った手前、もう他に一緒に行く人を作っていたとはいい辛くて」
では、とわたくしはロラン様の前を辞した。
ついてきたマックスが、得意げにいう。
「どうです? 少しは頼りになるでしょう?」
「少しは、ね」
助けられたことを認めるのがしゃくで、少し、を強調する。
「観劇の席、取っておきますね。姉さまとお出かけなんて、久しぶりで嬉しいです」
「ちょっと。本当に行く気?」
「だめですか?」
「だめ」
すると、マックスはしおらしくうつむいた。
わたくしの腕にすがって、そろそろと上目遣いにこっちを見上げてくる。
わたくしにとっては、いつものマックスらしい仕草で。
「……どうしても、だめ?」
必殺のうるんだ目。
だれもが庇護欲をそそられるいたいけな弱り顔。
気付いたら、わたくしは快諾してしまっていた。
「やった! デートですね!」
「おまえ! わざとね! 演技ね! わたくしの善意につけこんで!」
「姉様と一緒に行きたい気持ちは正真正銘、本物ですよ」
ぱちり、と余裕綽綽のウィンクが返ってきた。
ぐぐぐぐぐ、と奥歯を噛みしめる。
憎たらしいのに。かわいい。
憎たらしいのに。愛おしい。
ものすごく腹が立つ。
「強引ね。余裕のない男は嫌われるわよ。大人のくせに」
負け犬の遠吠えのようだと思いながら放った一矢は、意外なほど効果を発揮した。
自信満々のさっきの態度はどこへやら、マックスは今度は本当にしゅんとうなだれてしまった。
「……十六です」
「何が」
「本当は、十六歳です」
マックスはわたくしから正面をそらして、ばつが悪そうにしている。
「え――なら、死んだのは二十ではなくて」
「……姉さまが年上が好きだというので。嘘をつきました」
情けない顔をしているのを見られたくないのか、マックスは横を向いたままだ。
わたくしと目を合わせようとしない。沈んだ、小さな声で問うてくる。
「年下は、どうしてもダメですか?」
「――」
ここが公共の場でよかった。
でなかったら、おそらくわたくしは盛大に廊下に突っ伏していた。
なんなのよ。
なんなのよ、これは!
このクソかわいい生き物は!!
立派に育ったクセにむしろかわいさが増すって何なのよ!!!
ふざけてるの!?
胸中に荒れ狂う思いを公爵令嬢のプライドでもって力づくでねじ伏せ、わたくしは平静を保った。
小さく咳払いをして、努めて冷静に答える。
「あのね、マックス。良いとか駄目とかいう以前に、わたくしはとまどっているのよ。
八歳の弟が急に大人になって口説いてくるなんて、普通ではありえないことでしょう?
事情を理解するだけで精一杯よ。お願いだから時間をちょうだい」
うつむいていたマックスは、ぱっと顔を上げた。
打算はない。十六歳の、同い年の少年らしい表情だった。
「観劇のことだけど、席はわたくしが用意するわ。
おまえはただわたくしの後ろをついてくるのよ。
分かったわね?」
「分かりました。それでいいです。今は」
立ち直りの早い弟だ。
ちゃっかり腕を組んでくる。
――これはそのうち攻略されるかもしれない
わたくしはこっそり、心の中でこの義弟を恐れたのだった。