第七話 一日目の夕食の前に
屋敷に戻るとマリアと廊下で出会った。脇に避けてリサはマリアに道を譲った。マリアが通り過ぎずにリサの前で止まると、リサに顔を向けた。
「どこへ行っていたの?」
おかしなことを聞いてくるとリサは思ったが、正直に答えた。
「別にどこにも行っていないですよ」
「ふーん」と素っ気なく、マリアは感想をもらす。アリアは何かを気付いたようだが、何に気が付いたかはリサにはわからなかった。マリアが明るい顔で教えてくれた。
「この屋敷ってすごいよね、地下に大きなお風呂があるんだよ。掃除の時以外はいつでも入れるんだって。私たちも好きに使っていいって。ただ、浴場は一つしかないから、男性は風呂に入っている時は脱衣所の外に札をかけるんだって」
さすが金持ちの家だなと感嘆した。庶民にとって風呂は贅沢品。それが、ほぼいつでも入れるとは驚きだ。
これは利用できるかもしれないと、リサは企んでいた。エランかカインが入っているタイミングがわかれば、偶然を装って入れる。
エランもカインも上品ぶっているが所詮は男だ。その場の雰囲気で手を出してくるかもしれない。
既成事実ができれば、結婚に向けて前進できる。肉体関係までいけば嫁候補に落ちた時にモジリアニに懸け合えば、金を出すだろう。
モジリアニにとっては小銭感覚でも庶民の私にとっては大金よ。ここで失敗すれば私には落ちて行く未来がやってくる。お金があれば、もう一回再起するくらいのチャンスもめぐってくるわ。
「お風呂は素敵ですけど、男性と鉢合わせは困りますね」
リサは本心を隠して、恥じらって見せた。マリアは言いたいことをいったので前に向き直る。マリアは明るい調子で誰に語るわけでもなく話す。
「この世は妖精の見る夢のよう。誰かが誰かを惑わせている。夢から覚めないことも、夢を見続けることも危険じゃない。気を付けなきゃいけないのは夢と現実を区別できなくなることは」
意味が分からない。マリアに詩的なセンスがあるとは信じられない。恰好つけたのね。でも、どこかの三流詩人の受け売りね。
タダで風呂に入れるなら早く入りたい。長い安旅で風呂に入れなかった。身綺麗にしていたほうが男性の受けは良い。地下浴場の場所は簡単にわかった。
地下とマリアに言われたが、完全な地下ではなく半地下にあった。
入口の札をかける場所を見ると、札はかかっていない。脱衣所に入る。石造りの脱衣所は広く同時に八人が使えそうだった。魔法のぼんやりした灯と窓から入る陽の灯とが重なっていて風情がある。
建築士の腕がこれでもかと表現されていた。
脱衣籠に衣服を入れると、隣の籠には簡素な服があった。服は男女どちらでも着られるようなズボンとシャツの組み合わせだった。
「休みの日のメイドや下働きの女性のものかしら」
別に誰が入っていても気にならない。むしろ話し好きのおばちゃんでもいれば幸運だ。愚痴好きや噂好きは普段ならうんざりだが今は状況が違う。
『ここだけの話』とばかりにローズ家の裏の顔や下の人間から見た家人への評価が聞ければお見合いの戦略も変わってくる。
服を脱ぎ大浴場にへと繋がる竹製の引き戸に手を掛ける。竹を組んで作った引き戸は職人の手によるものだ。この手の扉は作るのに金がかかる。
浴場の中からパシャパシャと水音が聞こえるので誰かが入っている。話声はしないので相手は一人だ。
引き戸の向こうにあった浴場は石造りの立派な物だった。浴槽は二つありどちらも三人入っても寛げる。体の洗い場も大きく取られている。
浴場の中には誰もいなかった。水の跳ねる音も聞こえていない。さっきの水音は気のせいだったと判断して体を洗う。
「こんな立派なお風呂を使用人にも使わせるなんてローズ家はおおらかな家ね」
ローズ家の人間に好感が持てた。貧しい人を見下す人間は多い。それが世の中だと諦めはしている。だが、見下される側のリサにとっては不快であることに変わりがない。
温めのお湯は気持ちよい。水の質も汚れていない。体を洗うための湯瓶にも絶えずお湯が流れ込んでいる。
「これが噂に聞く温泉ね」
世の中にお湯がずっと湧き出す場所があると聞く。金持ちの保養所にはあるといわれていたが、温泉を個人で所有している人間は稀である。ローズ家の財力の現れでもあった。
「なるほどこんな設備を屋敷に付ければ金がかかるわけだ」
ローズ家の年間支出が多い理由がわかった。おそらくはまだ他にも贅沢な金の使い方をしている。
体を洗いサッパリしたリサは湯舟に浸かる。街の冷めたお湯と違った。
ほどよく温かく気持ちが良い。旅の疲れと肩にかかっていた『気負い』がほどけていく。
「こういう贅沢は嫌いではないわ」
わけのわからない壺や絵画に金を使われるよりよっぽど良い。しかも、ローズ家の人間はそんな贅沢の一部を使用人にも惜しみなく与えている。リサにとっては好印象だった。
リサは金持ちと結婚したいが、人間の上に立って威張りたいと思わない。下の人間だって生きている。それがわからない上流の人間はリサにとって醜いと嫌悪していた。
風呂場をチェックすると清掃は隅まで手が届いていた。使用人のやる気を感じる。理由は家の主人たちも使う設備であるが、自分たちも使うからだと予想できた。
下手に手を抜くと浴場を使う煩型の先輩からすぐ小言を言われる。
「他人の使う物だと、雑に扱う意識の低い使用人は多いわ。技術や知識は教えればどうにかなる。でも、意識の低さの改善が難しい。ローズ家では分け合う形で当事者意識を持たせて教育しているのね」
いつの時代からやっているかわからないが、モジリアニが考案しているならやり手だ。のほほんとした初老に足を入れつつある男と思ったが、なかなか侮れない。
モジリアニが義父になるのであれば、このお見合いは手の抜けない戦いになる。
脱衣所で気配がした。男か女かわからないが、服を脱いでいる感じではない。リサの服のポケットには金銭や財布は入っていない。
不埒な男性使用人が下着を漁っているのなら一言かましてやらねば気が済まない。リサはやられっぱなしになる、か弱い女性ではない。
そっと湯舟から出る。引き戸に近付いた。耳を澄ませばやはり脱衣所で人が動く気配がする。相手が不届きな男なら恥ずかしがらずにガツンとやる気だった。
ここで馬鹿にされれば、嫁入りされても、侮られる。
意気込んで引き戸を開けるが誰もいない。廊下に続く扉も閉じている。
「あれ? また気のせいかしら」
脱衣所に隠れる場所はない。リサに気付いて出て行ったようにも見えない。
「変ねえ、男じゃなくても誰かいると思ったんだけど」
陽はまだ高く。窓からの差し込む光は明るい。窓は小さく子供ならギリギリ通れるが大人には無理だ。子供が悪戯をしに忍び込んで、出て行くのも考えづらい。
高さからいって子供では窓には手が届かない。
脱衣所には籠を置く棚がある。身軽な猫なら棚の上から跳んで窓から出ていける。だが、猫は窓を閉めない。廊下へ出る扉も猫なら閉めていかない。
「この家には目に見えない何かがいるのかもしれない」
少し気味が悪い気がした。リサは入浴を切り上げて自室に戻る。旅の疲れのせいか、うとうとして来たので無理せず横になった。