実弟の苦悩
ミシェルの弟
王宮より公爵邸に帰宅したミシェルは、一つ下の弟であるカイルに迎えられた。
「あら、どうかして? カイル」
「どこかへ向かうときは、僕も同行すると言ったでしょう」
焦燥感のある顔で近づいてきたカイルは、ミシェルの姿を見て安堵の息を漏らす。
十四歳にしてカイルの身長は大人と同じにまで成長し、小柄なミシェルの隣に立つ姿は、傍から見れば妹を心配する兄のようにも見えた。
「ごめんなさい、カイル。けれど、わたくしも十五となりましたし、あなたを煩わせることは……」
「ダメです。外には危険な男が沢山いて、ミシェルを狙っているのですよっ」
「ごめんね」
何故か、男の存在を心配する弟にミシェルは優しく微笑んで目を細めるが、それが少しだけ寂しげなものに変わる。
「カイルは、すっかり大きくなったけど、少しだけ寂しいわ。もう昔のようには呼んでくれないの?」
「うっ」
そっと歩み寄り、下から覗き込むように上目遣いに見上げるミシェルに、カイルは絶句してよろめいた。
確かに昔……三歳か四歳の頃は名前では呼んでいなかった。それには海よりも深い理由があるのだが、カイルは先ほどのダメージから、ミシェル願いを撥ねのける気力は残っていなかった。
「……兄さん?」
「はい?」
「……姉さん?」
「はい?」
「……どっちですか?」
そう問うカイルに、ミシェルは目を細めて鈴音のような声でコロコロと笑う。
「まあ、カイルったら、ディラン様と同じことを仰るのね」
「ごふっ!」
「カイルっ!?」
突然、吐血して蹲る弟の背をミシェルが慌ててさする。
「どうしましたのっ? すぐに聖魔法を……」
「大丈夫っ、大丈夫です! 病気でも怪我でもありませんっ!」
実際、カイルは鍛えた身体は健常そのもので、この十年は風邪さえ引いていない。
だが、その精神はここ数年バランスを欠いており、こうした極度の精神的衝撃を受けると、心が平常に戻ろうとして(自動的に)気付けとして、さらに肉体的衝撃を与えるのだ。正に生命の神秘と言えるだろう。
カイルは幼い頃から健常ではあったが、心は強いとは言えなかった。
影を怖がり、夜を怖がり、知らない人を怖がり、初めて見る物を怖がっていたカイルを慰めたのは、両親でも専属の使用人でもなく、身体の弱いミシェルだった。
夜を怖がり眠れずに泣くカイルのトイレまでついてきてくれて、一緒に眠ってくれたのはミシェルだけだった。
ミシェルの身体が弱いのは、とても大きな魔力のせいだ。そのせいで身体に痛みがあるらしく、ミシェルの体力はカイルの半分もなかった。
幼いカイルは、優しいミシェルを守ることが自分の使命だと考えた。
数年が経ち、その強い魔力を聖魔法という、大量の魔力が必要な魔法を行使するようになって、身体の痛みはなくなったが、それでもミシェルの身体は成長が遅く、そんな〝兄〟を守るためにカイルは己を鍛え始めた。
だが……
何故か兄だったミシェルは、教会で『聖女』と呼ばれはじめ、いつの間にかディラン王子の婚約者となっていた。
何が起こったのか正直に言って理解できない。
子どもの頃は、ミシェルも幼い頃から着ていた女の子のような服装だったので、それほど違和感もなかった。
だが、成長すると鍛えていたカイルはすくすくと男性として成長していったが、兄であったミシェルは、いつの間にか極上の美少女に成長していた。
カイルは混乱した。最初から兄ではなく〝姉〟だったのか? いや違う。幼い頃から一緒に沐浴してきたカイルはミシェルが兄だと認識していた。
幼馴染みのディランやニコライもそうだろう。だからこそ二人は今、〝葛藤〟という牢獄の中で地獄を味わっている。
だとするなら、ミシェルは姉に見えるだけで兄のままなのか? それとも……
父親に訊ねた。兄は〝取り替え子〟に遭って、悪戯者の妖精にそっくりな美少女と取り替えられたのではないかと。
カイルをぶん殴った父は、ミシェルは間違いなく同じミシェルのままだと断言してくれたが、後日、父の書斎には取り替え子の関連本が多数取り寄せてあった。
母にも訊ねた。兄は本当は姉だったのではないかと聞いたが、カイルの頬を張り倒した母は、自分が産んだ子の性別を間違えることはないと力説していた。
だが、後日、古株の侍女長と二人でミシェルのアルバムを見ながら、しきりに首を捻っている母の姿を目撃した。
でも、カイルが心のバランスを崩していたのは、そんな些細なことではなかった。
「本当に大丈夫? カイル」
「本当に本当に大丈夫だ。だから、もうちょっと離れて……」
ミシェルが兄のままなら良かった。たとえ体力がなくても、身体が小さくても、ミシェルが〝兄〟としてカイルに接してくれるのなら、カイルは兄を尊敬し、たとえ過保護と言われようと、兄を守り生涯を掛けて支えただろう。
だが、目の前で心配して身体を寄せてくる〝兄〟は、どうしようもなく〝女性〟であった。
近寄られるととても良い匂いがする。心配で一緒の馬車に乗るときもたまに吐血しそうになるが、今日は何故かミシェルの匂いに石鹸の香りまで混ざって、カイルの精神を極限まで苛んだ。
なまじカイルの中に、ミシェルが男であるという認識があるせいで、今の姿で近寄られると、兄の〝女〟を意識してしまう。
「ごはっ」
「カイルっ、カイルっ」
「大丈夫だからぁああああっ!」
お願いだから身体をすり寄せないで。
背中に小ぶりだが押し当てられた膨らみを感じる。これは本物なのか? 詰め物ではないのか? カイルも本物は触ったことはないが、こんな精巧な物を作る技術が王国に存在しているのか? そもそも、この公爵邸と王宮と学園と教会以外に出かけるのを見たことがないミシェルが、そんな物をどこで手に入れられるのか?
顔を上げ振り返ると、カイルを心配そうに見つめるミシェルの顔が間近にあった。
ディランやニコライと違い、家族として距離感が限りなく無いに等しいミシェルの花のような容に、カイルの脳みそは激しく揺さぶられた。
愁いを帯びた目差しは清廉なミシェルに艶やかさを加え、さらりと流れる銀の髪はカイルと同じはずなのにキラキラと輝き、透明感のある白い肌も、艶やかな長い睫毛もすべてが光を放つようにカイルを魅了する。
もう兄とか姉とか関係ない。ここまで綺麗ならすべてを凌駕すると、カイルはそれを手に入れるため――
「ぶはぁああああああああああああああああっ!!」
「きゃあああっ、誰かっ、すぐに来てっ!」
小汚い虹を作るように血を吐きだしたカイルにミシェルが悲鳴をあげ、駆けつけた使用人たちによって自室に運び込まれて寝かされたカイルは、ベッドの脇で心配そうにカイルの頭を撫でるミシェルに真剣な顔で尋ねた。
「……王位を簒奪するには、どうしたらいいかな?」
「お城の侍医さまに診てもらいましょうね」
へたに健常である故に聖魔法も意味がないカイルを、心の底から心配してミシェルが窓の外に昇る月に祈りを捧げていた、同じ時刻、同じ月を見上げる教会の孤児の少女は、ピンクブロンドの髪を靡かせ腕を組みながら、この世界にそのものに宣言する。
「待たせたわね。私がこの世界の〝ヒロイン〟よっ!」
お大事に(棒)
そして、最終話直前になって現れた少女の正体は?
次回も明日の同じ時間です。