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水葬の魚たち  作者: 紬
9/10

別れ


 薄い胸の上で組む彼女の骨張った細い指に、皺だらけの分厚い手のひらを重ねる。ひんやりとした陶器のような冷たさに、彼女は逝ってしまったのだと今更ながら思い知った。いや、正しくは今からいくのかもしれない。何十年も恋焦がれた、あの海の元へ。


 胸元で手を組む彼女の青い指先は、青と白のヒヤシンスの花束をそっと握っている。私は棺が閉じられる前に、ひっそりとその頬に唇を寄せた。そばかすと皺が刻まれた、何十年も見続けた彼女の美しい横顔に。


 葬儀屋の若い男たちは怖々とした様子でそれを見守っていたが、何も言うことはなく棺をそっと閉じた。私は目深に被った帽子のつばを更に深く引き、そのまま棺を海に流すようにと指示を出した。


 舟に乗せられ、ある程度の距離が行ったところで海へと流された彼女を乗せた棺は、ゆっくりと波を楽しむように揺れて徐々に沈んでいく。重りには彼女が好んで使っていた鉱石にした。岩絵具、と言うそうだ。彼女がいつか私に教えてくれた、沢山のことのひとつだった。


 私はコートのポケットから煙草を取り出し、マッチに火をつけた。煙草咥え、それに火を灯し深く深く吸い込む。なんて皮肉なのだろう、煙草を好んで吸う私よりも彼女のほうが先に逝ってしまうなんて。紫煙を嫌う彼女の隣では吸わないようにと気を付けてさえいたのに。


 彼女を乗せた棺は、もう殆ど見えなくなっていた。鮮やかな海のブルーに呑まれる彼女を見つめ、彼女に言えなかったことを呟く。


「──そうやって、あなたはいつも私から逃げていく」


 きっと彼女が聞いたら、静かに笑って否定するだろう。逃げていたのはあなたの方でしょう? と。でも私にはそう思えたのだ。彼女は海に魅せられ、海だけに向き合っていたのだから。

 けれど私はそんな彼女の横顔を愛していた。そしてそれと同時に酷くその横顔を憎んでさえいた。私を見てくれと、いつだってその言葉を飲み込んでいたのだ。


 それでも、そうだとしても私は、彼女のことを


「……愛していたんだ」


 煙草を足元に落とし、その場を後にしようと背を向けたとき、ふいにパシャリと波の跳ねる音が聞こえた。反射的に振り向き、棺が沈んだ方へと目を向けた瞬間、私はその光景にハッと目を見開いた。


 長い黒髪に月光のような金色の鋭い双眼を持つ、美しい女が私を見つめていのだ。その隣には恋焦がれて仕方なかった彼女の、初恋が終わったあの夜と同じくらいの歳をした彼女の姿が。

 赤茶けた髪を揺らし、星空のようなそばかすの広がる彼女の愛らしい顔。彼女は私を真っ直ぐと見つめ、さよならを告げるように手を振った。


「あぁ、そうか…あなたの涙をずっと見ていたのは、」


 ふたりはお互いに顔を近付けて笑い合い、仲睦まじく手を取り合って海へと消えた。


 暫くの間、私はもう誰もいない海を眺めていた。穏やかな波が静寂をつくる、彼女の心を掴んで離さなかった憎くも愛おしい海を。


「──愛していたよ。あなたのことを心から」


 どうか幸せに、とは言わず私は今度こそ海へと背を向けた。家に戻れば彼女が初めて描いた拙い海がある。私の海はそれだけでいい。きっとそれだけは、それを手元に置くことだけは、きっと彼女も許してくれるだろうから。


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