七十歳
私と彼女が七十歳になる前、彼女は思うように筆が持てなくなっていった。彼女はそれに対して焦りを見せることはなく、ただ穏やかに一日と向き合って生きていた。
けれど毎日のように行っていた海に行けなくなったことを寂しがってはいた。二日に一度が三日に一度になり、晩年では月に一度、誰かに付き添われて海に行ければ良い方だった。
彼女は私に約束を取り付けた。ベッドで身体を起こし、青い指先を震わせて彼女は私を真っ直ぐと見つめて言った。
「お願いがあるの、あなたにしか頼めないお願いよ。私が死んだら、私を海に流してちょうだい。それから私の手に青と白のヒヤシンスの花束を握らせて」
少しの沈黙のあと、わたしは彼女から目を逸らして言った。
「……酷いひとだ、あなたは。この歳になってもあなたは私を見てはくれない」
震える手で彼女の手を取り、懇願するように両手で握った彼女の手に唇を寄せる。ひんやりと、冷たい体温が唇に触れた。彼女は手をそのままに小さく首を横に振った。
「いいえ。──愛しているわ、ずっと前から。あなたと出会ってからの六十年間、あなたを愛していない日などなかった」
「それなら、どうして…」
「あなたのことを愛しているわ。きっと友人以上に、恋人よりもずっとずっと。──でもそれ以上に、私はあの海を愛しているのよ。夜にひとりで泣く女の子を、初恋が終わった少女を、手離せない愛に苦しむ女を、あの海だけがいつも寄り添ってくれたのよ」
彼女は私の手からするりと手を抜き取り、震える青い指先で私の頬にそっと触れた。
「あなたが知らない三度の涙を、あの海だけが知ってるの」
その言葉は、私が彼女との約束に頷くに充分なものだった。彼女から与えられた約束、それが私に唯一できる許されたことなのだ。
私はまた彼女のことを傷付けていたのだ。これが我が身可愛さゆえに中途半端に生きた男への、彼女からの答えだった。




