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水葬の魚たち  作者: 紬
7/10

三十歳〜


 私に妻との子供ができたのは三十歳のときだった。妻と同じ深緑色の瞳をした、とても可愛らしい男の子だった。妻はとても優しく、ひとの心の機微に聡い女性だ。だからこそ、毎週末に会う私と彼女の関係性を何も訊きはしなかった。

 何かしら思うことはあったのだろうが、それでも妻は一言でさえ文句を言ったことはなかった。私はそんな妻を心から愛していた。いや愛していたと、私はそう思っている。


 けれど息子が十歳になったとき、妻は息子を連れて首都に戻って行った。別れたわけではない。ただ首都のほうがなにかと便利だからだ。いや、これは言い訳だな。私はそれを強く引き止めることはしなかったのだから。

 家を出る際に妻は一言だけ「彼女を愛しているのね」そう言って笑った。私はなにも言えなかった。愛しているとも、愛していないとも、言えなかった。

 結局のところ私は狡い男なのだ。あのときと同じ、我が身可愛さに押し黙り事を荒立てず済ませようとする、浅はかな男だ。


 年に一度、妻は息子と共に一ヶ月間だけこの町に戻ってくることを約束した。不思議と私たちは上手くやっていた。妻は別居する前と変わらぬ態度で、息子は年に一度会える父親である私に甘えて付いて回り、そうして穏やかに一ヶ月を過ごす。

 そのときばかりは私は彼女に会いに海には行かなかった。彼女もまた、それに対して何も言わなかった。


 私が五十歳になった時、妻とは正式に離縁した。妻は出会ったときと同じように穏やかに「あなたと結婚する前から、あなたには大切なひとがいると知っていた」と笑った。酷く驚く私に、それを知っていて結婚したのだからと、私を一切責めることはなかった。

 それがあまりにも苦しく、寂しかった。私の初恋はまだ終わっていなかったのだと、そう思い知らされた気がした。

 妻には申し訳ないことをしたと、せめてもの気持ちとして妻やその御両親を一生資金的に援助することを誓った。妻はそれを断ったが、私がどうしてもと約束を取り付けた。


 息子は私の元を離れるとばかりに思っていたが、この町で次期領主として生きると決めてくれた。一度酒に酔った勢いで彼女とのことも妻とのことも洗いざらい話し、「私のことを軽蔑するか」と問えば、「悲しいひとだとは思うけれど、軽蔑はしない」そう言って妻にそっくりな笑みを浮かべた。


 私はそうして徐々に息子に仕事を任せながら、彼女の元へと足繁く通った。毎週末から三日に一度へ変わり、彼女の隣で彼女の描く海を見続けた。

 彼女は画家としてそれなりに有名になっていた。彼女の両親が営む宿屋を改築し、小さな画廊を造った。絵を観に来る客からは金を取らず、あのとき雇った首都の物乞いを見張り番として座らせた。


 彼女は有名になっても変わらず海に魅せられたままでいた。最果ての海に続く防波堤の端でペンキの剥げた白い木製の小さな椅子に座り、大きなキャンバスに向かってひとり海を描く。


 青を一番多く使う彼女の青く染まった指先も、ほつれが目立つつばの広い麦わら帽子から覗く赤茶けた髪に混じる白も、そばかすと皺が目立つ彼女の横顔も、私には相変わらず眩しく映った。


 海に魅せられ、私を振り返ることなくキャンバスに向かう彼女は美しかった。私には誰よりも、彼女だけが美しく映った。


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