水葬の魚たち
私がこの町を飛び出したのは、初恋が終わったその週の終わりだった。彼女にも会わず、何も言わず、ただ『後学のために』と父に頼み込んで首都へと向かった。
父はそんな私を快く見送ってくれた。私が彼女といることを好ましく思っていなかったから、父にとっても丁度良かったのだろう。
首都での日々は目まぐるしく、そして輝いていた。見たことも聞いたこともない料理に首が痛くなるほど高い建物、毎日何処かしろで舞台が開かれ、女性も男性も着飾り品良くゆっくりと歩く。女性は長いレースの手袋をして日傘を差し、香水を振りかけて白粉を塗って赤い唇を上品に隠して笑う。彼女とは真逆の見た目で、それが妙に心地良くて、同時に目を背けたくなるほど吐き気がした。
青い指先で傷んで赤茶けた髪を耳に掛け、太陽の光を思う存分に浴びて屈託なく笑う彼女が、私には一番美しかった。だからこそ余計に街の女たちに吐き気がして、そして求めるように仕事が終われば私は夜の街へと繰り出した。
忘れたかったのだ、私は彼女のことを。酷く傷付け何も言わずに町を離れた私を、彼女は忘れてくれただろうか。
首都での生活に慣れた頃、私は偽名で彼女宛に手紙を出した。絵を売って欲しい、と支援者を名乗り出たのだ。
あそこは小さな町だが、海や自然が豊かだからこその強みがある。私はそこの時期領主だ。彼女ひとりくらいを手助けできる資金は充分にあった。
彼女は初めの方こそ手紙も返さずにいたが、私が何度も手紙を出すうちに根負けしたのか、一年が経った頃には支援者として彼女の絵画を売りに出すことに承諾してくれた。きっと支援者が私だと知っていたら結果は違っていたのだろう。一度彼女から直接会ってお礼がしたい、という内容の手紙が送られて来たが、それは丁重に断った。偽名を使ってまで彼女との繋がりを離せずにいる私だ。のこのこと会いに行けるわけがない。
彼女の元から絵を受け取り金を渡すのは、首都で出会った物乞いの青年を使った。信頼に足る人物だった。口が固く、給料を定期的に渡しておけば確実に仕事をこなしてくれる。
彼女は描く海は思うようにはあまり売れなかったが、私はそれで構わなかった。私は彼女の描くそれが好きだった。時に荒々しく渦巻く黒、時に燃えるように揺れる赤。そして私たちがいつか見た、目を見張るほど美しい青の海。私は絵を通してようやく、彼女の瞳に映る海を知れた気がした。
二十五歳のとき、私は首都で出会った女性と結婚した。絹糸のような金髪の深緑の瞳の女性だ。妻となった女性は優しく、そして人の心の機微に聡いひとだった。
再び町へと戻って来た私は、彼女のいる海へと中々行けずにいた。恐ろしかったのだ。私は彼女のあの瞳を見ることが堪らなく恐ろしかった。ひとの心を見透かし射抜く、あの真っ直ぐな瞳。
ようやく決心して彼女の元へと行ったのは、結婚式を挙げて半年後のことだった。凍えるような冬の、色のない季節。彼女はそこに居た、居てくれた。
果てのない海に何処までも続いていきそうな防波堤のその先、白い椅子に腰掛けた彼女。ふわふわと揺れる赤茶けた髪を耳に掛け、大きなキャンバスを前に絵筆を握るその後ろ姿。
何年も見ていない筈なのに、まるで昨日の続きを見ているかのようだった。私はあの頃と変わらず当然のように彼女の隣、半歩後ろへと立った。
「──冬はダメね、指先が悴んでまともに筆が持てないもの」
「じゃあ今度は手袋を贈ろうか。温かいけど薄い素材のやつを」
すんなりと、あれほど恐れていたのに私たちは自然に会話ができていた。けれど今だからこそ分かるが、あのときの会話ほど酷いものはなかった。私たちの声はお互いに震えていたからだ。冬の切り裂くような寒さからではなく、恐れを隠して無理に平静を装うとして。
「……結婚、したのね。おめでとう。それからもうひとつお礼を言うわ。ありがとう、支援者様」
「──ッ、知って、たん、だね。気付いていないと思ってた」
彼女はキャンバスから目を外し、ここにきて初めて私を見つめて笑った。少しだけ眉を下げて、不器用に笑ってみせる彼女に、この時の私は多分同じような笑みを返していたんだろう。お互いに手探りで距離感や関係性を探っていたのだ。
「気付くわ…、気付くわよそれくらい。あなたの字を私は何度も目にしたもの。あなたが教えてくれたのよ、文字の読み方も書き方も。私が一番目にした字は、あなたが書いたものだから」
目を逸らし、彼女は再び筆を手に取ってキャンバスに向き直った。星空が散らばる夜の海は、彼女とのあの夜を思い起こさせる。初恋が実って終わった、あの忘れることもできないミッドナイトブルー。それが酷く胸を痛ませて、私はそっと彼女の描く海から目を逸らした。
「今度からはあなたの名前で支援して。その方が私の両親も安心するから」
素っ気ない言い方だったが、私にはそれが堪らなく嬉しかった。あのときのことを許してくれたわけではないだろう。けれど隣に立つことは許してくれたのだ、彼女は。
「そうするよ、次からね。君の絵も少しずつ有名になってきた。首都でも絵画好きには有名だよ、君の描く海は」
「あら、じゃあまだまだね。絵画好き以外にも知られないと」
青い指先で髪を抑えて彼女は笑う。穏やかに跳ねた波の音を聞きながら、私はひっそりと初恋は終わったのだと再度知る。
決して燃えるような恋ではなかった。バスタブがじわじわと湯で満たされて、その中に丸めた身体の足先からゆっくりと湯の温かさが染み込んでいくような、緩やかで静かな恋だった。
「君のなかにまだ人魚はいる?」
「えぇそうね、いるわ。あの頃よりも強く。──二度目があったのよ、もう二度と会えないと思っていたのに。信じてくれる?」
「──信じては、信じてはいないよ今でも」
彼女の目を見つめ返してそう言えば、彼女は泣き出しそうな顔でグシャリと笑った。
ふと、思った。初恋が終わったのだ、と。
あの夜終わりを告げた初恋が、ようやく過去のものになったのだ。とうに終わったことだと、私たちはあの日々を美しくも苦々しい思い出として整理することができたのだ。




