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水葬の魚たち  作者: 紬
5/10

十八歳


 その日の夜、私は眠れずにいた。あの後、家に戻った父に「あまり彼女と関わるな」と言われてから、何も出来ずに自室で夜が来るのを待った。


 そして月が空の真上に昇ったのを確認し、こっそりと家を飛び出した。向かう先はあの防波堤だ。何処までも続く海に真っ直ぐと伸びる、彼女が居るあそこへ。

 会えるかどうかの確信はなかったが、彼女ならきっと居てくれるだろうと信じていた。悲しいことや悔しいこと、眠れないそんな夜は海を見に行くのだと、彼女が前に言っていたことを私は覚えていた。


 彼女はそこに居てくれた。白い椅子に腰掛けて、ただ月の光が伸びる夜に呑まれた海を見つめていた。


 私が来たことに気付いているだろうに、彼女は振り向きもせず身動ぎのひとつもしなかった。ただ背筋を真っ直ぐと伸ばし、柔らかに風に吹かれる髪を耳に掛けて海だけを見つめている。


「──ごめん、なにも言えなくて」


 当たり前のように立っていた彼女の隣に、私は行けなかった。彼女の小さな背を見つめ、拳のなかに爪を立てて強く強く握り締める。


「別にいいわ。あなたも私の話を信じていなかった、ただそれだけでしょう?」


「そ、れは…。でもあの場では何かを言うべきじゃなかったんだ。だから、」


「だからなに? 何も言うべきじゃなかった? なにそれ。私の話なんて信じていない、バカな女の妄言です、あなたはお父様にそう言えば良かったのよ」


 振り返った彼女の目は、怒りに歪んでいた。裏切られた、そう思ったのだろう。そして彼女からの信頼を裏切ったのは私だ。


「後から謝罪なんて幾らでもできるわ。それもあなたのお父様や他の人が居ない場所なら、私だけを相手にしているんなら幾らでも都合が良いように言い繕える。──私が欲しかった言葉は、もう手に入らない。あなたがそれを選択したんだから」


 突き付けられた言葉に、グッと胸が詰まる。呼吸すら一瞬止まった。溶けた鉄を胃に流し込んだかのように、グラグラと一瞬にして頭に血が昇る。


「どうして…ッ! 君こそいい加減目を覚ましてくれよ!どれだけ私が…、私はいつだって君を守ってきた! 子供たちの揶揄いも、大人たちからの悪評も、私は君から出来るだけ遠去けてきた!」


「えぇ、そうね。でも一番欲しかった言葉を、あなたは今まで一度も言ったことがないのよ。私を信じていると、あなたは一度だって言ってくれたことはなかったわ」


 射抜く、彼女の瞳が真っ直ぐと私の心を。強い風が轟々と海を響かせ、パシャリと防波堤に波を打ちつけた。


「それ、は…だって、居ないじゃないか。君が言う人魚の返事も、私にはいつもの波の音にしか聞こえない。ただの幻想なんだよ、夢を見る君が見せた幻なんだ…。頼むから…、お願いだ、一度でいいから私をちゃんと見てくれ」


 これは告白だった。初めて私は彼女に想いを告げたのだ。けれど彼女は静かに首を振り、ぐしゃりと顔を歪ませて言った。


「──私は、私のために怒ってくれるひとがいい。後になって聞く慰めの言葉も、謝罪もいらない。私はあなたに、その場で私のために怒ってほしかったのよ。結婚なんてしたくなかったらしなくていいと、女でもひとりで生きていけると、そう言って欲しかった」


 無様によろける様に、ふらりと彼女に一歩近付いた。けれど彼女は同じ分だけ一歩遠下がり、ただただ真っ直ぐと私を見つめた。


「人魚もなにもかも、信じてくれなくて良かったのよ。信じてくれなくたって、全然良かったの…。ただあのとき私は…、私はあなたにだけは、一緒になって怒って欲しかった」


 彼女は泣いていた。涙を溢さず、ただただ静かに笑って、泣いていた。彼女もまた私を好きでいてくれたのだと、ようやく気付いた。けれど一瞬で思い知る。もう戻れないのだと、遅かったのだと、私は知った。彼女の信頼も信用も、恋心さえ裏切ったのは私だったのだ。


 彼女ではなく、私自身がこの恋を、長く続いたこの初恋を終わらせたのだ。私はそれを彼女と初めて出会ったこの海で知った。


 背を向けた彼女にかける言葉を私は持ち合わせていなかった。ただ唇を噛み、溢れ出しそうになる涙を堪えることで精一杯で、それだけしかできなかった。


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