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水葬の魚たち  作者: 紬
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十八歳


 そうやって海に見守れながら月日を過ごし、私たちは十八歳となった。彼女は相変わらず、海に魅せられていた。


 この頃になると彼女の存在は町では一種のタブーとなっていた。腫れ物のような扱いをするのだ。話し掛けることはおろか、彼女の名を呼ぶ者も私や彼女の両親以外では居ないに等しかった。


 彼女は両親の宿屋を継ぐことはせず、毎日キャンバスに向き合っていた。あの果てのような防波堤の端で、白い椅子に腰掛けて筆を握る。

 つばの広い麦わら帽子は私が贈ったものだった。彼女の温かな焦げ茶色の髪は、太陽に光りに晒されたせいか赤茶けて見えるようになっていた。そばかすも増え、白かった肌は小麦色になっていたからだった。彼女は私からの贈り物をとても喜んでくれた。


 けれど彼女の両親は初めのうち、そんな娘の異様さや住民たちからの奇異な目に耐えられず、彼女を部屋に閉じ込めて説得した。けれど彼女は三日三晩飲まず食わずで泣き続け、結局のところ先に折れたのは彼女の両親だった。

 幸いだったのは彼女の両親が町の外の人間を相手にする商売だったことだろう。


 彼女は十五の頃から画家を目指すようになった。海を描きたいのだと、そう言った。いつも同じようでいて、それでいていつも違う色をしている海を描きたいのだと、そう笑った。

 私は彼女が少し恐ろしかった。絵が完成するたび、彼女はキャンバスを海に向かって掲げて見せ、「どう? 上手く描けたかしら」「──ありがとう」とひとりで笑ってみせるのだ。その時ばかりは私は彼女の横顔を見れないでいた。


 そして十八歳ともなると、この町の領主となる私には見合い話が次々と舞い込んで来るようになった。私は両親に今はまだ勉強したいと嘘の説得をし、なんとかその話から逃れようとしていた。

 期待を、そう私は期待をしていたのだ。いつか彼女の目が覚め、夢が終わり、私を見てくれるのではないかと。私は彼女のことを好きでいたのだ。星空のようなそばかすも、傷んでふわふわと広がる赤茶けた髪も、絵の具を混ぜる彼女の、一番多く描く青に僅かに染まった指先すら愛おしかった。


 そんな時、何度目かの見合いの話が舞い込んだ夜。私はついに彼女との関係を両親に訊かれた。バレていたのだ。私が毎週末、彼女に会いに行っていることに。

 彼女の噂は私の両親の元にまで届いていた。海に魅せられた哀れな少女、気狂い女、変人、彼女がそう呼ばれていることも勿論私の両親は知っていた。


「彼女は、彼女は画家です。その才能があります。私はただそれを応援したいだけなのです。人魚や魔物など、そんなものは居ないと彼女も重々承知しているでしょう。彼女は海を描きます。毎日のように。それを面白がった住民たちの根も葉もない噂です」


 そう言い訳することが精一杯だった。いやそう信じていたかったのかもしれない。私自身がそうであって欲しいと、強く思っていたのだ。


 父は次の日、彼女の元へとあの防波堤に私を連れて会いに行った。青く染まった指先で筆を持ち、私が贈った麦わら帽子を被る、赤毛が麦畑のように柔らかに広がる彼女の姿を、その日は真っ直ぐと見れなかったことを覚えている。


「私の息子がお世話になっているそうだね。──あぁ本当だ。息子の言っていた通り、君は画家としての才能があるのかもしれない。美しい絵だね」


 キャンバスを覗き込んで目を細める父に、初め彼女は驚いていた様子だったけれど、絵を褒められて嬉しいのか頬を赤く染めてはにかんでいた。


「ありがとうございます。でも本当はまだまだなんです。もっと上手くなったら、人魚を描きたくて…。だからこれは練習なんです」


 彼女は真っ直ぐと目を見つめて話すひとだった。曇りのない輝いた瞳で、相手の心すら見透かすようなその眼差し。

 

 父は酷く驚き、そして苦笑混じりに咳払いをして首を横に振った。


「想像力が豊かなんだね君は。人魚など居やしないのに…。あぁ、名を馳せる芸術家は昔から風変わりな人間が多いと聞くな。君もそのひとりなんだろう。きっと有名な画家になるよ」


 子供をあやすような父の物言いに、彼女はカッと頬を赤く染めて肩を震わせた。


「見たんです、小さい頃。一度だけですけど。私は人魚を見て…、だから海を描こうと決めたんです」


 強い口調だった。怒りや羞恥を押し殺しているような、今まで聞いたことのない彼女の声だった。


「人魚を見た…? それは御伽噺の中の話じゃ、」


「い、いいえ、本当です領主様。私は人魚を見ました。それに姿は見えないけれど、いつも私が話しかけた言葉に返事をしてくれるんです」


「…どうやら根も葉もない噂ではなかったらしい。バカバカしい、その歳にもなって結婚することもせず女のくせに絵ばかり描いて…挙げ句の果てには人魚? 全くどうして息子はこんな…」


「──ッ、結婚したって幸せになるとは限りません。それに画家に女も男も関係ありません! 人魚だって姿は見えないけれどきっと居ます。存在します…!」


 彼女は私を見つめてそう言った。私にも何か言って欲しいのだろうと、言われなくても分かった。

 けれど舌は喉の奥で丸まったまま、動こうとはしない。父の訝しげな視線が横顔に突き刺さる。

 私は、私は結局一言でさえ何も言えなかった。ただ口を閉じて、拳を握り締め、俯くだけだった。


 彼女はそんな私をどう思っただろう。視線だけでそっと見上げた彼女は、なんの表情も浮かべてはいなかった。ゾッとするほど無気力で、力なく垂れ下がった腕の先から絵筆が零れ落ちた。


「──もう行くぞ」


 腕を強引に引かれ、足が勝手に歩みを進める。彼女は絵筆を拾い上げ、背を向けてキャンバスに向き直った。私は父の手を振り解くことも出来ず、待たせていた馬車に乗り込んだ。


 穏やかに打ちつける波の音だけが、いつまでも私の耳の奥に残っていた。


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