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水葬の魚たち  作者: 紬
2/10

十歳


 男が彼女と出逢ったのは、今から六十年前のことだった。小さな国の端の小さな町のそのまた端で、彼女は海辺で宿泊施設を営む家の一人娘として生まれた。

 焦げ茶色の豊かな髪と、同じ色をした温かな垂れ目がちな瞳。そばかすが夜空の星のように顔に散らばった、特別人と比べて美しいわけでもなく、何処にでも居る愛らしさが香る顔立ちの平凡な少女だった。


 二人が十歳の時、男はひとり海へと続く防波堤の一番端でじっと立ち尽くしたまま、何の変哲もない海を眺めている彼女に出逢った。微動だにせず、ただじっと睨み付けるように果てもなく広がる海を彼女はいつまでも見ていた。


「なによ、また嘘つき呼ばわりしに来たの?」


 振り向きもせず、彼女は言った。その尖った声色に私は飛び上がりそうになるのをなんとか抑えて、潮風に波打つ彼女の焦げ茶色の髪を見つめながら縮こまった舌を懸命に動かして弁明する。


「う、嘘つきってなんのこと? 僕はただ、何を見てるのか気になっただけで、」


「──あら? あなた、だあれ?」


 振り返った彼女はパッチリとした目を大きく見開いて不思議そうに小首を傾げた。先ほどより幾分か高くなった敵意のない声色にホッと安堵する。それが私と彼女の出逢いだった。



「ごめんなさい、違う子と勘違いしちゃったの」


 彼女は直ぐ近くにある海沿いの小さな宿泊施設を営む家の子だった。私がこの町の領主の息子だと言えば彼女は驚いたようにパチパチと目を瞬かせ、そして再度頭を下げた。素直で優しい子だった。


「海をね、見ていたの。パパもママも誰も信じてくれないけれど、わたしね、人魚を見たのよ。三日前の夜に。だからここに居ればまた会えるんじゃないかと思って、ずっと海を見てるの」


「人魚? 絵本とかに出てくるあの人魚?」


 驚いて聞き返せば、彼女はふいと視線を海に戻して私の顔など見ずに「そうよ」と一言だけ呟いた。どうせあなたも信じないのでしょう、彼女の静かな横顔はそう言っていた。


「──ッ、どんな姿だったの? 髪や目の色は?」


 思わず声を張り上げた。海を見つめている彼女を自分に振り向かせたくて。今思えば、これが初恋の始まりだったのだろうと思う。長くて苦しい、私の初恋の始まりがここだった。


 私の質問に彼女はパッと顔を輝かせ、海面に反射した陽の光に焦げ茶色の瞳をキラキラと輝かせて花が咲くように大きく笑った。薄っすらとそばかすが散らばるその顔に、小さな私の胸はドキドキと忙しなく鼓動したことをよく覚えている。


「腰まである長い黒髪だったわ! 瞳はお月さまと同じ金色で…あっ、それから鱗が綺麗だったのを覚えてるわ! 烏みたいに虹色に輝く黒色の鱗の尾が見えたの」


 小さな両手を目一杯に広げて、彼女は嬉しそうに私に説明してくれた。海藻のようにゆらゆらと揺れる柔らかい黒髪に、月のように輝く金色の瞳、目が合ったときに驚いたようにその月のような瞳を見開いて、そしてゆっくりと微笑みかけてくれたこと。その全てを彼女は眩しいものを見るような眼差しで熱く語った。


「明日も来ていい? 僕も人魚が見たいな」


 約束をした。人魚を見たいからではなく、彼女に会いたいが為に。


 私もまた信じてなどいなかったのだ。彼女のそれは空想のなかの話で、いつか終わりが来るものだと信じて疑っていなかった。それが私の過ちであり、そして彼女にとっての裏切りとなった。


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