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水葬の魚たち  作者: 紬
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別れ


 薄い胸の上で組む彼女の骨張った細い指に、自身の皺だらけの分厚い手のひらを重ねる。ひんやりとした陶器のような冷たさに、彼女は逝ってしまったのだと今更ながら思い知った。いや、正しくは今からいくのかもしれない。何十年も恋焦がれた、あの海の元へ。


 緩やかに組まされた手の中には、生前彼女に頼まれていた青と白のヒヤシンスの花束が。彼女から約束させられていたことのひとつだ。『お願いがあるの。私が死んだら、私の手に青と白のヒヤシンスの花束を握らせて』そう穏やかに笑って話す彼女が、私は心底恨めしかった。


 男は目深に被った帽子のつばをクッと指先で引き下げ、不安そうな面持ちで指示を待つ葬儀屋の若い男二人に「柩のまま、彼女を海に…」と苦笑をこぼす。


 これもまた生前の彼女に一方的に約束させられたことのひとつだった。ひとつはヒヤシンスの花束。そしてもうひとつが死んだら彼女をこの国では一般的な土葬ではなく、彼女が何十年と愛し続けたこの海へ水葬として送り出すこと。

 これだけが男が彼女にする許されたことだった。それだけしか、彼女は男に許さなかった。


 葬儀屋の若い男二人は怖々とした、──今直ぐにでも逃げ出したいと言わんばかりの表情で、彼女を乗せた柩の蓋をしっかりと閉めてから海へと降ろしてゆく。まるで遠いいつか読んだ異国の物語りの話のようだと、男は小さく笑った。

 死者を乗せた舟は何処へ行くのだろうか。ひとは死ねば星になる、といつか聞いた気がする。それならば海の底へと向かう彼女は一体何になるのだろうか。


「あの、俺たちはここで…、」


「──あぁ、ありがとう。御主人にもよろしくと伝えておいてくれ。これは面倒を頼んだ少しばかりの礼だ。面倒をかけて悪かった」


 分厚いコートのポケットから幾らばかりの硬貨を取り出せば、二人は恐々とそれを受け取りペコペコと何度か頭を下げて逃げるように海へと背を向けて走り去ってしまった。


 無理もない。この町に住む者なら尚更ここには近付きたくないだろう。この海にはひとつの言い伝えがあった。魔物が住む海、ともう何十年も前から囁かれてきたのだ。

 いや、それは少し違うか。そのバカげた言い伝えに信憑性が増したのは、年老いた彼女が十歳になってからのことだった。むしろ彼女がその噂を生んだ張本人と言ってもいい。それだけ彼女はこの海に魅せられていたのだから。


 重りを入れた棺が更に海水で満たされていき、ゆっくりと海へと落ちてゆく。何処か寂しい色をしている青が霞んだ冬の海を見つめ、男はひとりポケットから取り出した煙草に火をつけた。


「──そうやってあなたは、いつも私から逃げていく」


 年老いた男の呟いた声は、空高く吹き渡る冬の風のように僅かに震えていた。


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