倫理
「ねえ、あの商人襲ってしまいませんか? あいつなら襲っても怒られなさそうだしあの程度の護衛、私と沖田さんなら余裕でしょう?」
これが悪魔のささやきか。一瞬シルアがあの悪魔にだぶって見えた。
確かに商人の護衛は武装しているけど、腕はどうだろう。例えば私が彼らの注意を惹きつけている間にシルアが盗む、というようなことは出来るかもしれない。
実を手に入れれば私の病気は治り、今日本に帰ることが出来る。シルアの言葉に私の心は少し動いてしまう。
「そんなこと言わないでよ、本当にそうしたくなっちゃうでしょ」
「しないんですか? この前はけなげな少女が病気の母親を助けるって話だったから奪うことは出来ませんでした。でもあの商人から実を強奪してもそんなに良心は痛まないでしょう?」
「あの商人を襲うことに良心は痛まないけど、他人を襲って物を奪うのは強盗と一緒だよ」
「強盗かそうじゃないかって自分の命に比べたらどうでもいいことじゃないですか?」
シルアの表情は真剣だった。確かにそういう考え方はあると思う。世の中の強盗も皆それぞれ仕方ない事情はあるだろう。突き詰めて考えてみると分からなくなってくる。理屈の上ではあの商人から実を盗むのは悪くないかもしれないし、例えば目の前で知らない人がそれをしたら私は止めるだろうか。
ただ、私は何となくそれをする気にはならなかった。
「うまく言えないけど……どうでも良くはない」
「そうですか」
そうは言いつつもなぜかシルアはほっとした様子だった。もしかしたら露悪的なだけで本当はいい娘なのかもしれない。だから私が悪の道に進まなかったことに安堵してくれている、ということだったらいいなと思った。
しかし盗まないとしたらどうしたものか。このままここに入っていって商人に金貨三十枚稼げる仕事をくださいなんて言ったら私まで責められそうな雰囲気だ。強盗をしたら喝采を浴びそうで(浴びないかもしれないけど)、普通に話をしにいったら責められるというのもおかしな話だけど、とりあえずこの場が終わってからにした方が良さそうだ。
「……ちくしょう、金貨三十一枚だ!」
男の絶叫が響く。まずい、悠長にしている間にどんどん値段が上がっていく。やっぱり盗むしかないのか。そんな私の焦りを見抜いたのか、またまたシルアが私の耳に口を近づけてくる。
「ねえ、趣向を変えて金貨三十二枚であいつの用心棒をするというのはどうでしょう?」
「用心棒にそんなにお金出さないと思うけど」
「腕を見せる、とか言ってあいつの護衛みんな蹴散らせばいいでしょう」
シルアはあっけらかんと言うが、全くこの娘は。
「それは遠回しに強盗してるだけでしょ」
商人の護衛と私の間ぐらいの強さの強盗が現れてくれれば金貨三十枚で用心棒に雇ってくれるかもしれないけど。当然、シルアに狂言強盗させて私がシルアを撃退するというのもなしだ。
「ばれたか」
そんなことを話していると商人は満足したのか、この広場を離れようとしている。
「ふふ、それでは他のお客様に金貨三十二枚以上の方がいないか聞いてまいります故また会いましょう」
「クソ野郎!」
「人間のクズ!」
「お前に人の心はないのか!」
男は慟哭し怒号がこだまするが、商人はそよ風が吹いた程度も動じない。広げていた普通の商品をまとめるとさっさと広場を出ていってしまった。
さて、私も商人を追いかけようかな、と思ったときだった。広場で天を仰いでいた金貨三十一枚の男が私の方を見た。これは嫌な予感がする。何となく私はそう思った。
「そこの旅人のお二方!」
私がその場を去る前に声をかけられてしまう。正直、この男と下手に親密になってしまうのは嫌だ。なんせこいつは実をめぐって争うライバルなのだから。
が、男はそんなこととは知らず疲れ果てた目をしながらこちらへよろよろと歩いてくる。ちょっと無視して去っていくことは出来ない。私は仕方なく答えを返す。
「何でしょう?」
「見たところお二方ともかなりの使い手とお見受けします。そこでお願いがあるのですが、あの商人を殺して実を奪ってきてもらえませんか?」
「何言ってるんですか。冗談はほどほどにしてください、私たち初対面じゃないですか!」
そう言いつつも私は男の目が本気なのを感じていた。頼むから私の断るという意志を察してさっさと諦めてくれないかな。どれだけ頼まれても依頼を受ける訳にはいかないし、泣き落としにでも遭ってしまえば辛くなるだけだ。
「ですが、あなたはかなり腕が立つようにお見受けしますし、こちらの方は人を斬ったこともあるような雰囲気がします!」
そう言って男は私とシルアを順番に見る。シルアは男の言葉に一瞬表情をこわばらせたが、特に否定も肯定もしなかった。
「いや、そういう問題じゃ……」
「さっきのあの商人のやり方を見ただろ! このままではいたずらに実の値段がつり上がってみんなが不幸せになるだけだ!」
男は激高して叫ぶ。私が何から反論したらいいか分からずに困っていると傍らのシルアが口を開く。
「それで、あなたは私たちに金貨を何枚払うんですか?」
「……十枚」
男は目をそらしながら答える。
途端にシルアの目がつり上がる。
「ちょっとそれ馬鹿にしてるんですか! 実は金貨三十一枚の価値があるんですよ、そんなはした金で依頼を受けるぐらいなら商人を殺しても実は私たちのものです!」
「いや、三十一枚でもやらないからね?」
シルアの言葉は男を拒絶させるための方便だと思っているが、一応釘を刺しておく。
「だろうな……ああ、さっきは勢いで金貨三十一枚なんて言ってしまったが本当はそんな金貨ある訳ないんだ。くそ、娘は助からないだろうな。あいつのせいでみんなが不幸になるんだ……」
そう言って男は落胆した様子を見せる。本当に落胆しているのか、私の同情を惹こうとしているのかはよく分からない。とはいえ、仮に前者だとしても私の気持ちは変わらない。
「私は部外者だからこんなことを言うのもなんだけど、人には皆寿命がある。それに無理に抗おうとするよりも、残された時間をどう使うかの方が大事じゃないかな」
なんて、悪魔の力を借りて天命に抗っている私が言ってもお笑い種だけど。
ただこれだけは言える。悪魔に会う直前、病死を控えていた状態のときでも私は同じことを言ったはずだ。少なくとも私は商人から実を奪い取ってまで寿命を延ばしたいとは思わない。
「寿命? そんなもの認められるか! 自分の命ならいざ知らず、大切な娘の命なんだ! 俺は絶対に諦めない!」
男の目は血走っていた。
私は走り去っていく男に何の言葉もかけることが出来なかった。言われてみれば私の場合は自分の命だから自分で納得出来るけど、もし他人だったらどうだろうか。家族やまだいないけど恋人だったら。
が、想像してみてもすぐに答えは出来なかった。
「気持ちは分かりますけど、いきなり部外者にあの報酬でこんなこと頼むなんてどうかしてますね」
シルアは呆れ顔だ。呆れ方はどこまでも打算的だけど。
「さっきは助け船を出してくれてありがとう」
倫理的な論点で男に反論するのは難しい。だからシルアはあえて金銭的な理屈で男に反論してくれたのだろう。
「いえ。単純に、損得勘定を判断の基準にすると生きるのが楽だということですよ」
「そうだね。あーあ、さっきの男も最後に金貨で娘さんにおいしいご飯でも食べさせてあげたりしてくれるといいけど」
とは言いつつも残念ながらそんな風には見えなかった。こういう時、すぐに諦めるのは薄情なのだろうか。大切な人のためなら犯罪に走ることも辞さない方がいいのだろうか。本来はだめだけど、相手が悪人の時だけ許されるのだろうか。
色々なことを考えてみるが答えは出ない。
「……当初の予定通り、オズワルドを追いかけましょうか」
私が暗い気分になったのを察したのか、シルアが気分を仕切りなおそうとしてくれる。
「そうだね、そうしよう」




