沖田霞
「今日もお疲れ」
「霞先輩もお疲れ様です」
「もうすぐ大会だから体調気をつけてね」
「先輩こそ、今年こそは県大会優勝がかかってますから」
校門を出ると、私は手を振って良きライバル兼後輩の桜ちゃんと別れる。桜ちゃんは短い髪を揺らしながらこちらへ手を振ると少しだけ名残惜しそうに帰路につく。
私、沖田霞は現在高校二年生。県内ではまあまあ強いとされるうちの剣道部で去年は県大会出場メンバーに選ばれ、今年は全国大会出場すら期待されている。そして私もそれにこたえるべく毎日練習を積んできた。手ごたえで言えば全国大会出場の自信もある。
「体調気を付けてね、か」
一人になるとそう言って私は白い息を吐く。
確かに体調さえ万全なら県大会優勝も夢ではない。
体調さえ万全ならば。
完璧な体調を維持するため、私は今も汗をかいた後で冷えないように制服の上からコートを羽織り、マフラーを巻いて手袋もしてついでにカイロもポケットに入れている。夜も出来るだけ毎日同じ時間に寝ているようにしているし、野菜も残さず食べている。
だが、私が恐れているのは風邪やインフルエンザの類ではなかった。
私は最近やたらめまいがするし、今日も練習中に貧血に襲われた。元々物心ついた時から体が強い方ではなかったし、剣道を始めたのも体を鍛えるために何かスポーツを始めようと思ったのがきっかけだ。
しかし大会が近いこの時期に症状を訴えれば、もしかするとドクターストップがかかってしまうかもしれない。
だから私は必死で何もない風を装った。幸いこれまで十七年の人生で積んできた訓練で、私はどうにかやり過ごすことが出来た。今日も頭がくらくらする中、無事稽古試合で勝利した。
そんな状態だったからこそ、後輩との会話で無意識に「体調気を付けてね」などという言葉が出て来てしまったのだろう。
が、一人になると張り詰めていた緊張の糸がほぐれてしまったせいか、一気にしんどさが体にのしかかってくる。桜ちゃんと別れてからは途端に歩くのもしんどく思えてきた。
「どうしよう、家に帰る前に少し休んでいこうかな」
このまま家に帰れば親にも心配をかけてしまうかもしれない。それで病院にでも連れていかれたらまずい。ファストフード店かどこかで回復するのを待ってから帰ろう。そう思った私は親に「部活が長引いたから少し遅くなる」とラインする。そして時々帰り道に部活仲間といくファストフード店を目指して歩き出す。
ふと、遠くで犬の吠え声が聞こえた。
何となくそちらを見ると一匹の飼い犬が飼い主の手を離れ、道路に飛び出そうとしているのが見える。信号のないところであるため、次々と車が往来している。
「危ない!」
反射的に私はそちらに駆け寄って犬のリードを掴もうとする。
幼いころから私は運動神経に恵まれており、同じ時間練習していた仲間よりも私の方が必ず強かった。もしかすると私の体が弱いのはその代償なのかもしれない。
そう聞くと釣り合っているように思われるかもしれないけど、別にそれは私が望んだことではない。だから私は才能という言葉があまり好きではなかった。
とはいえ、今だけはそんな自分の持って生まれた資質に感謝した。犬がぎりぎり車道に出る前に手が届きそうになる。少しでも私の運動神経が悪ければ間に合わなかっただろう。
そんなことを考えつつ私の手がリードの先端に触れる。
その時だった。
「痛っ」
夢中で駆けだしたせいで私は足元に落ちていた石につまずく。普段ならどうということもない小石だったが、走っていたのと体調が悪かったのとが重なって私は大きくよろめく。目の前に灰色のアスファルトが迫る。そして私は衝撃とともに意識が遠のいていくのを感じた。
意識を失う間際、去年の大会で私を破った相手や部活仲間の顔、そして桜ちゃんが脳裏をよぎる。
嫌だ、あと少しなのに。
大会に出たい。
だから私は祈った。
「神でも悪魔でもいい、私を助けて欲しい」