十二 ここで一つ事件を整理してみよう(三)
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「今一つ検討しなくてはならいのは部屋のクローゼットのなかに仕掛けられていた時限式のクロスボウだ。
両開きのクローゼットの横格子上の木製扉、その木片の一本が破壊されていた。誰かによって意図的に破壊されたのかどうかは定かではない。その射線はちょうどミカミ先生の倒れていた位置を通るようになっていた。
が、その位置は椅子もない机の少し手前という中途半端な位置、ミカミ先生があんな時間にあんなところで立ち止まって何かをしていたというのはあまりに不自然であり、この仕掛けによってミカミ先生が殺害されたとは到底考えられない。
果たしてこんなもの誰が一体何のつもりで仕掛けたのだろう」
「そんなのお前の言った通り、あんな仕掛けでミカミ学長を殺せたとは思えない。イコール、あれは犯人の残した偽の手がかり。イコール密室を出入りできた人間、つまりはドロシー先輩に罪を着せるためじゃないのか」
「うーん、どうにも回りくどい気がするなあ。あんなものが仕掛けてなかろうが、あの状況でミカミ先生が殺害されていれば犯人はドロシー以外に考えられないんじゃないのか。
仮に目的をそう解釈するにしても偽の手がかりが機能するためにはあの部屋が密室状態であることが必要条件のはずだ。
《変則内出血密室説》のような出来事が起こったとすれば、それは偶然の産物だと考えていたが、偽の手がかりの目的をそう解釈するならば犯人はミカミ先生を狙い通りに動かしたということになる。
そんなことが可能かどうか疑わしいが、少なくともミカミ先生の思考のパターンを知悉した人物、つまりはまたドロシーが容疑者の最右翼に舞い戻ることになるな」
「あるいは推理小説家ミカミ・ケイコの弟子、ラッセル・バレットの犯行か。——冗談だよ。そんな目で見ないでくれ。——ああ、一つ思いついたぞ。あの仕掛けによってミカミ先生を殺害する方法を。
ミカミ先生があんな時間に学長室に残っていたのは何か片付ける仕事があったのか、あるいは犯人をはじめとする誰かと何か待ち合わせをしていたのか、それは定かではない。
とにかく犯人はそれを知っていたんだ。そして犯人は真夜中、学長室の扉をノックする。ミカミ先生は返事をしたあと扉を開けにいくだろう。そして扉までの道のり、机の少し手前でミカミ先生の身体に毒矢が突き刺さったんだ」
「それは、あまりに荒唐無稽だよ」
「そうかな」
「ノックをしたあと、返事をするか、しないか。自分で部屋の扉を開けるか、入ってくるように促すかなんてその時々じゃないか。作業中ならこの一単語を綴ってから、このピリオドを打ってから席を立とうと思うかもしれない。
そうした不確定要素のためにタイミングは無限に左右される。一方でクロスボウから放たれる矢はとても素早い。何分の一秒のタイミングか、あるいは何十分の一秒のタイミングかはわからないけどな。そのトリックが成功する確率は一パーセントもないんじゃないか」
「プロバビリティの犯罪ってやつじゃないか。ほら以前にお前が言ってただろう。実際に成功するかわからないような犯罪をたくさん仕掛けるやつだ」
「それはダメだよ。プロバビリティの犯罪っていうのは事故か自殺に見えるようなトリックを沢山仕掛けるのが勘所なんだ。今お前が言ったように明らかに害意のあるようなトリックじゃ仕掛けるたびにターゲットを警戒させるよ。それにミカミ先生が犯人の意思とは関係ない形でこの部屋にいたのを犯人が知ったのか、あるいは犯人と待ち合わせをしていたのか、どちらにしてもトリックが失敗したとき、ミカミ先生の視点から見る容疑者の数はたかが知れているはずだ。このトリックの失敗は犯人にとってあまりにも致命的だよ」
「なるほどね。でも成功率一パーセント以下ってのは納得いかないな。犯人と何らかの理由で密会するならほかの人にその場にいるのを見られないように犯人が来る前から鍵を閉めておくことだった考えられるんじゃないか」
「そもそも根本的なところで矛盾があるよ。ミカミ先生がその晩、学長室で夜を明かすことを犯人が知っているなら狙うべきはミカミ先生の執務机に備え付けられた椅子の上だろう。
確かにミカミ先生が執務机に向かっているとは限らないが、そもそもお前の説はミカミ先生が執務机に座って扉のほうまで歩み寄ってくるということが前提のはずだ。そうでなければ扉がノックされるときどこにいるかによって、扉までのルートも例の地点までにかかる時間もバラバラなわけだからそんなトリックを仕掛けようとは思えない」
アーガスは肩をすくめて降参の意を示した。
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「あの時限式のクロスボウの存在はどうにも厄介です。ドロシー・ミカミを犯人とする説にしても、犯人としない説にしても水を差してくる。犯人がそんなことにまで考えが及ばない人間であったとすればそれまでではありますがね」
喋っている途中でステイシーはどうにも自分があのラッセル・バレットという青年に毒されているような気がしてならなかった。
現実の犯罪者は誰も彼も小説の登場人物のように合理的に行動するわけではない。
とはいえ普通の犯罪者は密室トリックも仕掛けなければ、偽の手がかりも仕掛けないのもまた事実なのだが。
「時限式クロスボウの柄には月時計——月光を用いる魔術のために造られたものだ——が付けられていました。
この一番長い針、月針は月の満ち欠けの周期、つまりは二九.五三日で一周します。この点だけ踏まえると犯人は約三十日前からこの仕掛けをしていた可能性があるわけですが、それに被害者が気付かなかった可能性はどれほどあるでしょうか」
「ウェッダーバーン副学長のほか数名の関係者が、ミカミ氏が慢性的な視野狭窄を訴えていたという証言があります。おまけに例のクローゼットの扉が壊れている個所やクロスボウの仕掛けられた位置は人間の腰の高さほどです。明かりもありませんから近くによって覗き込まない限りは、特に目に不安のない人間でも気付かなったのではないでしょうか。クローゼットの中の埃っぽさからしてその扉が滅多に開けられなかったことも推察されます。つまり仕掛けが成功したかはともかく、それにミカミ・ケイコ氏が気付かなかった公算は高いように思えます」
「私も同意見です。となると次の問題は誰がこの仕掛けを仕掛け得たかということです」
「知っての通り学長室の扉には簡単な閂錠しか付いていませんでした。というのもこの学園と同い年であるこの校舎はその存在自体が文化財、できるだけ改修せずに使用するというのが代々の方針だったようです」
ケイコ・ミカミは部屋にいるとき、いないときを問わず、この閂錠を閉めないことが多かったようだ。
閂錠に限らず鍵を部屋の外から念動魔術によって操作するというのはものぐさな魔術師にしばしば見られる行動だが、ミカミはその手段は採用していなかった。
例の防衛魔術がかかっている以上、部屋の外から念動魔術によって閂をスライドさせるのはミカミにも不可能だ。
その魔術をいちいち解除しなかったという意味ではものぐさなのかもしれないが、優れた魔術師が多く過ごすこの学園において閂など何の意味もないと考えていたとすれば合理的ではある。
不用心と言えば不用心だが、そのためにミカミはこの部屋に貴重なものは置かないようにしていたという。
そういう意味では遺体発見時、この閂錠が閉まっていたということも些細なことながら一つの謎なのである。