安全運転
あるところに、ドライブが趣味のT氏という男がいた。彼の運転のモットーは、安全第一。決して交通ルールをやぶることはなかった。
黄色信号で交差点に進入する車を見ると、「ああいう車はいつか事故に遭うぞ」とつぶやき、自身は必ず停止線で止まった。
スピードを出しすぎている車を見ると、「急いだところで、到着時間はそう何分もかわらないし、どうせ次の信号で引っかかるのがおちさ」と言い、T氏は法定速度を遵守するのだった。
そんなT氏の運転に業を煮やした友人が、ある時こんなことを言ってみた。
「そんなにちんたら走っていたんじゃ、自転車と変わらないじゃないか。交通ルールってのは、適度に守ってればいいんだよ」
だが、T氏の返答は、
「危険や法を犯してまで車を運転する気はないね。それに、なぜ安全運転をとやかく言われなければならないんだ」
と、とりつく島もなかった。
T氏は、無謀な運転をしても良いことなどひとつも無い、とかたく信じていた。事実、彼は運転中に危ない目に合ったことはこれまでに一度もなかったし、十年以上にわたりゴールド免許を更新し続けていたのだ。
さて、そんなある日、金環日食が見られる日が近づいてきた。金環日食は約十八年に一度起きる壮大な天体ショーだ。誰もがその日を心待ちにしていた。
しかし、T氏が住んでいる地方はちょうど雨期にあたり、肝心のその日の天気予報は、雨こそ降らないまでも生憎の曇り。そのため、金環日食を見るには、地方で一番高い山の頂まで車で登らなければならなかった。もちろんT氏も車で山頂に向かうことにした。
多くの車が、我先に、とばかりにスピードを出して山道を登っていった。T氏の車は次々と追い抜かれた。しかし、彼はまったくあわてなかった。
「時間にはたっぷり余裕があるし、山頂の駐車場も十分に広い。急いだって、結局は同じことさ」
T氏はいつもの通り、安全運転でゆっくりと山頂を目指すのだった。
ところが予期せぬことが起きた。ここ数日の雨で地盤のゆるんだ山肌が土砂崩れを起こして道路をふさいでしまったのだ。もちろん交通はストップ。これ以上、車を進めることができなくなってしまった。歩くにも、山頂までは距離があり過ぎる。T氏には、その場で待機するしか他に手立てはなかった。
数時間後、ようやく崩れた土砂が取り除かれ、交通規制が解除された。T氏はあわてて山頂に向かったが、金環日食を見られる時間はとっくに過ぎてしまっていた。日食を見ることができたのは、スピードを出して山道を登っていった連中ばかりだった。
「いやあ、今までの人生の中で、最高の眺めだったよ」
「あんなに素敵な光景は、これから先も滅多な事では見られないだろうなあ」
満足げにそんな会話を交わす人たちを、T氏は指をくわえて眺めることしかできないのだった。