第一章ー8
◆◇◆
彩花本人と言葉を交わすことは叶わなかった。
帰り際、北条プロデューサーに俺のことを聞いたのか、少し困ったような表情で目礼されただけだった。
「さて、と」
俺は早番勤務終了後、事務室へと向かう。
御利用者の個別ファイルを見るためだ。
御利用者の個人情報が記されているこのファイル。職員以外の閲覧は禁止されている。休憩室の隣にある、事務室に保管されている。持ち出しも厳禁。普段は鍵のかかったロッカーに入れられ、厳重な管理体制が敷かれている。
俺は三十個近いファイルの中から、西条ヨシさんの個別ファイルを取り出し、ページをめくる。
北条プロデューサー――北条さんに尋ねてみたかったが、聞けなかった事柄の一つを、確かめたかった。
まず、目に止まったのが家族構成だ。
さすがに八十後半ともなると、親族も増えており、孫もかなりの人数がいる。彩花の本名らしき名前も見つけたが、読み飛ばす。
本名を特定するためにファイルを開いたわけではない。
目的のページを探す。
「……一年前か。やっぱり」
程なくして、目当てのページに辿り着く。
彩花に関する記載は皆無。
これは西条ヨシさんのファイルだ。子どもならともかく、孫の事情など書かれているわけがなかった。
だが、それらしき文面はあった。
時期も合っている。
ちょうど一年前のこと。
彩花が突然、全ての声優活動を中止し、休養したことがあったのだ。
二週間という短い期間ではあったが、生放送や特番など、既に決まっていた仕事を唐突に休み、彩花の代わりにピンチヒッターで別の声優が入ったりと、それがいかに急なものであったことはファンにも伝わっていた。
幸い、アニメ等の収録は終わっている時期で、大きな混乱はなかったが、ファンにとっては衝撃的なニュースだった。
彩花が、声優という職業に賭ける想いは人一倍強い。
中学生の頃から声優へ憧れ、親の反対を振り切ってまで養成所に通い、人一倍努力した。けれど、なかなか大きな役を勝ち取ることはできなかった。一時は全く別の職種に就職し、それでもなお諦めきれず、働きながら声優を目指していたほどだ。周囲からの猛反発を押し切り、何度も辛い経験を経て、その末に勝ち取ったのが、彩花にとっての『声優』という職業だ。
その大切な仕事を、前触れなしに休んだのだ。
なにかあったと思わない方が不自然だった。
公式の発表は『体調不良』の一文のみ。
俺も含めて、彩花のファンは皆が心配し、事務所や各種番組宛てにメールやお手紙を沢山送ったが、はっきりした回答はなく、病名すら発表されなかった。
二週間後。
多くのファンが心配する中、これもまた唐突に、彩花は復帰した。
結局、その二週間の間に何があったのかは未だ謎のままで、ファンの間では様々な憶測が飛び交っている。
その答えが、目の前にあった。
西条ヨシさんが、アルツハイマー型認知症と診断されたのが、ちょうどその時期と重なっていた。
さらに追記で、こう記されていた。
『子の声は認識可であったが、孫の声を認識できず』
声の仕事をする彩花にとって、最も応援してくれていた大切な人が、自身の声を認識できなくなるという事態。どれほどの衝撃を与えたか、想像に難くなかった。