第四章ー10
彩花に、今の言葉全てを届けたかった。
なんの関係もない婦人会の人達に、お祝いだとシュークリームを配って歩くなんて、よっぽど嬉しかったのだろう。
そして、配られた側の山根さんが、そこから彩花のことを知り、アニメを観てくれていた。ファンになってくれていたのだ。
彩花は、「一番最初に報告したのはおばあちゃん」と公言しているが、それ以上のエピソードは一切、語っていない。
きっと、知らないはずだ。
「桜川さん、本当に、西条さんはお孫さんのことを忘れてしまったのでしょうか?」
山根さんは、どこかまだ信じ切れていないようだった。
俺だってあまり信じたくはなかったが、信じざるを得ない。
「この目で確認したわけではないのですが、お孫さん本人からの情報ですので、おそらくは……」
「そうですか……。でも、先ほどのお話しでは、面と向かって名乗ればまだ分かるという話だったわよね?」
「はい」
西条さんは、確かに彩花のことを認識できなくなっていた。
顔を見ても声を聞いても分からなかったそうだ。
唯一、救いがあるとすれば、きちんと顔を見せて、「孫だ」と、「彩花だ」と名乗れば、まだ分かってくれたらしいこと。
北条さんは、そう話していた。
「だったら、まだ少しでも記憶があるうちに、お孫さん――彩花さんを、おばあちゃんと一緒に過ごせるように配慮してあげることはできないのかしら? お仕事が忙しいのは分かるけど、彼女にとっても、西条さんにとっても、そっちの方が良くはないかしら?」
「それは、そうなんですが……」
山根さんの意見はもっともだ。
今の状態を考えれば、西条さんの記憶の中から、いつ、彩花の記憶が全て抜け落ちてしまうか分からない。そうなる前に、少しでも一緒にいる時間を作れないのか。
声優の仕事は大切かもしれないが、優先すべきことはある。
それは理解できる。
できるが――。
『わたしにとって、『挑戦すること』は、わたし自身で、わたしがこの世界で生きている理由なんです。立ち止まって、下を向くくらいなら、わたしはこのまま、声が出ないままでも、かまわないと思っています』
彩花の言葉が脳裏によみがえる。
本来であれば、休むべきなのだ。
山根さんに言われるまでもなく、北条さんだって、そうすべきだと話していた。西条さんだけの状態じゃない。彩花だって、心身ともにぼろぼろなのだ。
休むべきなのは、誰が見ても明らかだった。
そしてきっと、誰もが分かるそんなことは、彩花自身が一番、理解しているはずなのだ。
百ラジの収録時、声を作れなくなった彩花は、出してはいけない声を出していた。
あれは、間違いなく、心からの悲鳴だろう。
彼女は、それでも挑戦すると言っている。
どうした方がいいか、どうするべきか。
そんな問いかけは、きっと彼女には無意味だ。
やろうと思えば強制的に仕事をキャンセルさせ、無理やり休ませることもできる北条さんが、彩花の意志を尊重したのは、そういう次元の問題ではないからだろう。
「桜川さん」
俺が苦い顔をしていたからだろうか。
山根さんは、なにか察したようだった。
「もし、お仕事を休むことができない理由があるのなら、それはそれで仕方ないことだと思うわ。でもね、記憶が死ぬということは、その人自身が死ぬのと同じことだとわたしは思うの。あなたたちは、まだ近しい人が亡くなった経験がないかもしれないけれど……。亡くなった後、後悔しても遅いのよ。あなたは介護職なんだから、分かるわよね」
「……はい」
「後悔、しないようにね。わたしが言えるのはそれだけよ」
丸眼鏡の奥に覗いている瞳には、僅かながら影があった。
――そうなんだよな。
当たり前のことだが、介護職は命に関わる仕事だ。
これまでだって、何度もそういう場面を見てきた。
たった三年、されど三年。
ふれあい西家などの小規模事業所は、現在の法律では二十九名の御利用者を受け入れることができる。
これを多いと取るか少ないと取るかは人それぞれだが、俺は、少ないと感じたことは一度だってなかった。
たった三年間で、俺が就職した当時、利用していた御利用者は、半数以上がふれあい西家を去っている。
亡くなった方もいる。病気や怪我で寝たきりになり、別の施設へ移動となった方もいる。
事情はそれぞれ異なるが、一つだけ言えることは、「どの御利用者が、いつ、どうなるか分からない」こと。
元気だと思っていた御利用者が、自宅へ戻った際、外へ出歩き、交通事故で亡くなったこともあった。とても優しかった方が、病気のせいで精神面のバランスが崩れ、職員や他の御利用者に暴力を振るうようになったこともある。ほとんど認知症が進行していない方が、どんどん体の調子が悪くなり、「迷惑をかけて申し訳ない」「ごめんなさい」と言い残し、涙のお別れとなったこともあった。
山根さんの言葉は、俺の心に重く響いた。
「知らない仲じゃないんだし、なにかあったら協力するわ。頑張りなさいよ」
「はい。ありがとうございます」
俺は山根さんの激励に、力を込めて返答した。




