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第四章ー8

 認知症対応において、気を逸らしたり、気を紛らわせる対応は珍しいことではない。

 介護では、基本的に嘘を言うことはNGとされている。

 食事やトイレ、お風呂など、本来であれば人に見せるべきではない部分をさらけ出すのだ。御利用者と職員は信頼関係があってこそ成り立つ部分が多い。

 御利用者本位――介護される側の立場に立って物事を考えること――が最重要とされる介護において、信頼関係を壊しかねない『嘘』を言うことは本来タブーとされている。

 だが実際、介護現場に出てみると、そうも言っていられない。

 特に認知症対応では、危険度や緊急度を鑑みると、どうしても嘘を言わなければならない場面が出て来るのだ。

 家に帰りたいと希望される方に対して、例えば「あなたが家に帰ると邪魔になる」、「家に帰って火を使われ、火事になったら大変なことだ」と嘘をつかず、そのまま伝えたとする。

余計に興奮させてしまうだけだろう。

 自分はボケた、上手く○○することができない、と理解している人なら良いが、「自分はまだまだなんでもできる」と思っている人が圧倒的に多い。そんな人に向かって、「あなたは○○できない」と直球で話したらどうなるか。

 火を見るよりも明らかだ。

 それを防ぐため、『気を逸らす』方法が取られる。

 事実をそのまま伝えることができない介護職員は、話題を逸らしたり、その人が好きなことや、やりたいことをしてもらい、気を逸らす方向へ話を誘導する。

 帰宅願望が出てしまった人と、外へ散歩しに行ったりするのが最たる例だ。

 帰宅願望が出る人の中には、閉じ込められているかのような閉塞感から「帰りたい」と口にする人も多い。そのため、「家に帰すことはできない」が「外に出てもらう」ことで気を逸らすのだ。本人の気が済むまで周囲を探索し、帰って来ると、意外なほど落ち着いていることが多い。

 もちろん、それを行うだけの人員的、時間的余裕がある時に限られてしまうが……。



「あら、あらあら! 西条さん! お久しぶりです」



「は?」

 ミーティングを終え、解散しかけたその時、フロアに大きな声が響いた。

山根やまねさん! お久しぶりです!」

 一番最初に反応したのは市川園長だった。

 フロアへ目をやると、茶髪に丸眼鏡が特徴的な老婦人がいた。

 どう若く見積もっても七十代のこの方は、一ヶ月に一度、ふれあい西家へ顔を出し、洗濯物たたみや料理など、職員の手伝いをしてくださるボランティアさんだ。

「山根さん、久しぶりだな」

「ですね~」

 それを遠目で眺め、松岡主任と頷き合う。

 山根さんは、ふれあい西家設立当初からずっとボランティアに来てくださっており、以前聞いた話だと、市川園長とは何年も前から仲の良い友人関係になっているらしい。

 ――いや、じゃなくて。

「え、ちょっと待ってください。山根さん、西条さんのことを知ってる感じでした?」

「ああ、そう聞こえたな」

 先ほど、山根さんは、西条さんを見て「久しぶり」と声をかけていた。明らかに面識がある反応だった。

「山根さんは西条さんのことを知っておられるのですか?」

 市川園長も気になったらしく、挨拶もそこそこに山根さんへ確認する。

「ええ。知ってるもなにも、市川さんよりも、もっと古い付き合いよ。地域の婦人会で旅行に行ったりヨガを習ったり、パーティーを開いたり、いろんなことをしたわ」

 山根さんはうふふ、と上品に笑う。

 そして、衝撃的な一言を発した。



「そうだ。西条さん、お孫さん凄いわね~。もうすっかり有名になっちゃって、あなたも鼻が高いんじゃないの?」

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