第一章ー2
「おーい! おーーい!」
いくらも進まないうちに、ホールから声が聞こえた。
「おーい! トイレ行きたいんだけども!」
「分かりました! 今行きますので、ちょっと待っててください」
俺は包丁を置き、すぐにホールへ戻る。
声をかけてきたのは目の見えないおばあちゃんだ。
幾度となく、あちこちで転んだりぶつかったりを繰り返しておられる方だ。転倒して骨を折った、なんてことになったら事業所全体の信用に関わる。自宅で起こったならともかく、我々介護職はお金をもらって働いているプロだ。
転倒など、もってのほかだ。
「悪いね、忙しい時に」
「いいですよ」
俺はしっかりと両手を握り、「ここから少し真っ直ぐです」、「右に曲がりますよ」と細かく声をかけてトイレまでお連れする。
「兄ちゃん、ちぃっといいかね」
その間にも、他の御利用者から声がかかる。
俺は声がかかる度に忙しく動き回りつつ、その合間を縫って料理をする。
この程度の忙しさは慣れっこだった。
介護職の人手不足が深刻化している、というニュースをよく見かけるが、全くもってその通り。小規模事業所は、御利用者の自宅まで出向き、トイレの世話や安否確認、薬の服薬確認等を行う『訪問』と呼ばれる業務もある。
訪問業務があると、その間、ホールに残る職員が一人減るため、職員一人で十数人の御利用者を見なければならないこともあるのだ。
「はい、終わり!」
時間を取られながらもなんとか進め、四十分後、昼食の準備が完了した。
「西条さん、どうぞ、召し上がってください」
まず、午後から予定がある西条さんに配膳する。
「おお、美味しそうだね」
「沢山食べてくださいね」
「はいはい。残さず食べますよ、ありがとう」
いただきます、と手を合わせて西条さんはすぐに食べ始める。
西条さん――西条ヨシさんは、真っ白な髪の毛と、花が咲いたような笑顔が特徴的なおばあちゃんだ。顔には多くのしわが刻まれているが、それを吹き飛ばしてしまうほど、素敵な笑顔を見せてくださる。
まだ一週間足らずの付き合いではあるが、怒ったところは見たことがなく、慣れない生活だろうに、いつもにこにこと笑ってくださる。きっと、昔から穏やかで優しい人だったのだろうと職員の誰もが感じていた。
「美味しいですよ」
西条さんはすぐに感想をくださり、どんどん箸を進ませる。
俺はその様子を傍目で見ながら、他の御利用者へ昼食を配膳し始めた。