第三章ー4
画面内の彩花は「えー? どうしよっかな」と少しおどけて見せてから、律儀に要望に応えようとしていた。
しかし。
《じゃあ行くよー……ぁ……っ》
「……?」
それは、奇妙な光景だった。
彩花の口は、確かに言葉を紡ごうと動いていた。
なのに、『声が出ない』。
彩花は「あれ?」と素の声で言ってから、もう一度、挑戦する。
《……ぅ……ぁ》
見ている俺も、最初は何が起こったのか理解できなかった。
画面内の彩花自身も、喉を触ったり、普通に声が出ることを確認したりと、戸惑っていたから。
だが、それもほんのわずかな間だけだった。
彩花はマイクに向かって、何度も、何度も挑戦する。
それでも声が出ない。
明らかに異常事態だった。
何度口を動かしても、画面越しに聞こえてくるのは、空気を吐き出すような、耳障りな音だけだ。
《………ぅ…ゕっ!》
なおも続けようとする彩花の前に、黒い人影が駆け寄る。
《彩花、無理するな》
北条さんだった。
彩花とカメラの間に大きな体を入り込ませる。
《彩花、一旦休もう、な?》
北条さんは、彩花に声をかけつつ、カメラに向かって「撮影を中止してください」というアピールをする。
その直後だった。
《~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!》
膨大な『音』が、鼓膜に叩きつけられた。
それは、『声』というにはあまりにも歪だった。
俺は反射的に、イヤホンをつけていた耳に手をやり、耳を塞ごうとしてしまった。実際、画面内で最も近くにいた北条さんも、手で耳を塞いでしまっている。
聞くだけで気分が悪くなりそうな、肺活量に任せたただただ、大きいだけの声。獣のような、あるいは、人間の声を機械で無理やり引き伸ばして、音量を上げたような、とてつもなく聞き心地の悪い音だった。
《彩花! やめろ!》
北条さんは彩花の両肩に手を置き、言い聞かせるように、耳元で声を張り上げる。
《~~~~~~~~~~っ!》
止まらない。
悲痛な叫び声が響き渡る。
《彩花!》
《~~~~~~~~~~っ!》
《彩花! 喉が潰れるぞ! やめろ!》
北条さんが何度も、何度も呼びかけて。
ようやく、彩花は声を出すことをやめた。
次に聞こえてきたのは、かすかな嗚咽だった。
北条さんは振り返り、スタッフへ手早く指示を出す。
その瞬間、一瞬だけ彩花の顔を映った。
「――っ」
目を疑った。
キラキラした、明るい笑顔ばかりが心に焼き付いていたから、その表情が何を示しているのか、理解するまでに時間を要した。
瞳から光が消え、青ざめていた。
色という色が抜け落ちていた。
心の底から、絶望し切った表情だった。
そこで、カメラは止められていた。
「……」
動画を見終わった俺は、画面を見つめたまま、動けなかった。
心臓が痛いほどに脈打ち、タブレットを持つ手が震えた。
北条さんの言った、彩花の現状。
おそらくは、『声が出なくなっている』ことだろう。
それは理解できた。十分すぎるほどに。
でも、俺が衝撃を受けたのは、そんなことではなかった。
胸が引き裂かれる思い、というのはこういうことを言うのかと、始めて知った。憧れであり、尊敬している人が、本気で苦しんでいる姿を見せられて、俺は――。
「桜川さん」
北条さんに呼びかけられ、はっと我に返る。
「いろいろなことが頭の中を駆け巡っているかと思いますが、まず、説明させてください」
はい、とも言えず、曖昧に頷く俺に、北条さんは冷静な声で彩花の現状を詳しく教えてくれた。
彩花は今、『声を作ることができなくなっている』らしい。
単純に声が出なくなっているわけではなく、地声は問題なく出るとのこと。そう言えば先ほど、謝罪合戦の際、普通に声が出ていたなと思い当たる。
また、この症状は、昨年、西条ヨシさんが彩花の声を認識できなくなった時にも出た症状で、今回で二度目らしい。
『声優』と『祖母』。
彩花にとって、この二つは強く結びついており、片方がバランスを崩したことで、声優として必要不可欠な『声を作ること』に支障が出ているのではないか、と。
医師からも、精神的なものが原因だと断言されているらしい。
「そして、では何故、こんな状態になってしまったのか、ということですが……」
北条さんはそこで一つ、ふぅと息を吐き、隣に座る彩花へ一度視線を送る。
視線を受けた彩花は、なにかを必死に堪えているような、苦し気な表情のまま、頷く。
北条さんも、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、そして、その言葉を発した。
「西条ヨシさんが、彩花の姿を見ても、彩花だと認識できなくなりました」




