第二章ー7
――ヤバい!
コンマ数秒後には駆け出していた。
「あっ!」
トイレへ向かって、最初に目に付いたのはウォーカーだった。
トイレの前に、西条さんが使用しているウォーカーが置いてあった。
西条さんは、ウォーカーを押していればふらつくことはないが、ウォーカーがない場合は……。
ドクン、と心臓が大きく脈打つ。
血の気が引いた。
転倒。
それは、高齢者の人生を左右するもの。
高齢者は反射神経が衰えていることから、転倒した際、手をつくことができず、頭や胸といった最も守らなければならない部分を簡単にぶつけてしまうことがある。
転倒から、死に至るケースもあるのだ。
そうでなくても、骨折でもすれば大事になる。
「西条さん!」
勢いよくトイレのドアを開けると
「いたたた……」
便器の前で尻もちをついている西条さんが目に飛び込んでくる。
転倒、したのだろう。
駆け寄り、状態を確認する。
「大丈夫ですか?」
「ああ、すまんね~。ちょっと転んでしまって」
にこっと笑ってみせる西条さんを見て、とりあえず一安心。
意識はある。
少なくとも、命に関わるような事態ではないようだ。
「主任!」
大声で松岡主任を呼び、状況を説明する。
「ヒロ、バイタル!」
松岡主任は一度ホールに戻り、体温計と血圧計を持って戻って来る。
見た目は大丈夫そうでも、体温や血圧に異常が出る場合もある。転倒直後、一度測定するのは介護現場の鉄則だ。
「西条さん、どこかぶつけましたか?」
測定中の僅かな時間も無駄にはしない。
認知症を患っている高齢者は、自身が大怪我をしても、その原因や、怪我をしたことを簡単に忘れてしまう。転倒したその瞬間を見ていない場合、状況を正確に把握するためには、忘れてしまわない内に、どれだけ本人から情報を引き出せるかが鍵なのだ。
「尻もちをついただけだよ。大袈裟にしないでいいよ」
西条さんは、こんな時でも笑ってみせる。
尻もちをついたのであれば、影響がありそうな箇所は、腰や太もも、手をついている可能性も考えれば、手首や腕も確認すべきだ。
俺は一か所ずつ、見落としがないよう確認する。
「痛っ」
俺がちょうど腰のあたりに触れた際、それまで笑顔だった西条さんの顔が歪んだ。
相当な痛みらしい。
「バイタルは異常なしか」
同時進行で、松岡主任が体温と血圧を測る。
そちらは異常ないようだ。
「西条さん、立てそうですか?」
声をかけると、西条さんは右足を引きずるように立ち上がろうとするが、思うように力が入らないのか、立ち上がることができない。
「無理にはいいですよ」
「はい……すみませんね」
松岡主任は立ち上がれないことを確認すると、「失礼します」と西条さんのズボンを少し下げ、腰や太もも付近を確認する。
「見た感じ外傷はないけど、立ち上がれないとなると……。ヒロ、園長呼んできて」
「分かりました」
頷き、駆け足でフロアへ戻る。
市川園長は御利用者と楽し気に話していた。
「園長!」
「どうしましたか?」
俺が状況を説明すると、一瞬で顔色が変わる。
「他の御利用者を見ていてください」と言い残し、すぐに行動を開始する。
市川園長の対応はさすがの一言だった。
すぐにトイレへ向かい、自分の目で改めて状態を確認。フロアに残っていた俺へ、救急車の手配を指示する。その間も、どうして転倒したのか、俺と松岡主任から詳しく状況を聞き、西条さん本人にも改めて状況を尋ね、事態を正確に把握する。さらに、救急車が来るまでの間に、緊急時の連絡先でもある娘夫婦への電話も済ませてしまう。
そうして、少し落ち着いた後。
「桜川さん。お孫さんへの連絡は、あなたがすべきでしょう。任せますよ」
少し強い口調で、そう指示をされる。
緊急時の連絡先にもなっておらず、主介護者でもない彩花に、本来こちらから連絡する必要はない。黙っていても、家族間でやり取りがなされるだろうが、そういう問題ではない。
彩花へは、西条さんの状態を随時報告する、と市川園長、松岡主任許可のもと、約束している。緊急時には連絡を入れなければならないだろう。
そして、その役目は俺だ。
「……はい」
奥歯を噛みしめ、鈍い返事をする俺を、市川園長は一瞬心配そうな目で見たが、すぐにトイレへ戻っていった。
――「祖母のこと、お願いします」
頭の中で、彩花の真剣な声が反響していた。




